「大丈夫よ。生徒は三時過ぎないと来ないから」 とても初対面とは思えない気さくさで、お茶を勧めてくる。実は偶然、睦子の父も書道教室を開いていた。そのせいか、この建物に懐かしさというか、肌にしっとりなじむというか、他人の家のような気がしない。

いただいた冷たい麦茶もおいしかった。

「白髪神社の奥さんもここの生徒さんなの」

「書道を教えてらっしゃるんですか」

「そう、そろばんもね。何でもやらないといまどきは食べていけないじゃない」主は他人事のように、ひょうひょうと話す。

「代書みたいなこともやるのよ。ご朱印やお札なんてアルバイトでけっこう上手に書くわよ」

とケタケタ笑った。この人柄なら何でもできそうだ。

秩父は巡礼が有名だから、仕事には困らないだろう。彼女は加代といい、秩父が好きで、不便を承知で親子代々住み続けていると言った。

「あのご夫婦は世話好きだから、仲人なんてたくさんしているのよ。あなたもそのくちかな?」

さも、さりげなく、軽く個人的なことに話を振ってきた。イヤではなかった。

抱えている重い気持ちをいまは少しでも軽くしたかった。「実はそうなんです。難ありで、お詫びに来たんですけど……ちょっと敷居が高くて尻込みしているところだったんです」

「あらあら、それは大変ね……。お若いのに。ご自分で伺うとは大したものだわ」睦子はそんな言葉にさえ感極まって、つい涙を浮かべてしまった。自分が涙を流してしまったことに慌てたが、余計感情が高ぶり涙は止まらない。知らない女性の前で、ほろほろと涙を流してしまった。

何も事情を知らないはずの加代が訳知り顔で慰めてくれる。不思議な心持ちになった。でもなぜか嬉しい。

 

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