しかし、その笑顔が私の覚(おぼ)えている母の最後の笑顔となった。私は読書に埋没して、母のことなど気にも留(と)めなかったし、そんな余裕もなかった。それでも母は私を好きにさせて、文句(もんく)の一つも言わなかった。そして、私を助(たす)けようとするばかりだった。無論、私はそんな母を顧(かえり)みることもなかった。

やがて、私が仕事に就(つ)くと、益々(ますます)そんな傾向に拍車が掛かった。かてて加(くわ)えて、私は自分の人生の屈折を、酒なしには耐(た)えることができなかった。いつともなく酒量が増し、やがて心と体に障害が出始めた。

いつしか外の世界が疎(うと)ましく、厭(いと)わしいものになって、私は虚無の壁に囲まれた自分だけの世界で、酒に浸(ひた)って生(い)きるようになっていた。

そんな私にとって、母の私への関わりは何であれ、ただ面倒(めんどう)で下(くだ)らないことに思われた。母が何を言っても、ただ煩(うるさ)いと思うばかりだった。そんなふうにして、私は知らず知らずのうちに、母の夢と誇(ほこ)りを裏切(うらぎ)っていった。

そして帰郷してから十年も経(た)った頃になって、やっと母は「お前は仕事しかしない。家のことを何もしない」と、愚痴(ぐち)をこぼすようになっていた。そしていつしか二十年の歳月(さいげつ)が過ぎる頃には、母の顔は次第に穏(おだ)やかさを失って、やがて不満にこわばり、険(けわ)しく歪(ゆが)んでいった。

そして、最後の頃には、もう母と私の間に通じる言葉はなくなっていた。二人の間(あいだ)には、ただ真空の空間があるばかりで、怒鳴(どな)っても喚(わめ)いても、私の言葉は母に届(とど)かなくなっていた。母は「お前が悪い、お前が悪い」と、狂ったように罵(ののし)って暴れた。

私の絶望的な生き様(ざま)が母の悲哀(ひあい)と狂気を誘(さそ)ったのだ。私は何を言っても、言(い)うことを聞いてくれなくなった母を持て余(あま)した。老いて惚(ぼ)けていく母との生活は、どうにも立ち行かなくなっていった。

そうして私は母の介護を諦(あきら)めて、母を和歌山の姉に預(あず)けてしまった。丁度(ちょうど)、私の店が破産した騒擾(そうじょう)にかこつけて、母を厄介払(やっかいばら)いしたのだ。それは母の自ら望(のぞ)んだことでもあった。

 

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