『古事記』には邪馬台国や卑弥呼に関する記述は全く無い。
『日本書紀』の「神功皇后紀」では「魏志に云はく」で始まる朝貢記事を引用している(引用資料二‐一)。三九年、「景初三年倭の女王大夫を遣わす」、四〇年、「正始元年……」、四三年、「正始四年倭王……上献す」、六六年、「泰初二年倭の女王訳を重ねて貢献せしむ」の記事が見られる。
ただし前後する国内の記述とは全く関連性がない。
『記紀』の編纂者に両者の整合性を得るために、何らかの操作、工夫を試みる意図が全く感じられない。彼らの持っているデータバンクの情報を、単に時系列に合わせて編集、並記したとしか考えられず、女王が「神功皇后」に対応していると読者に思わせる意図があったのだろう。
しかし「神功皇后」や他の天皇、皇子、姫君が積極的に朝貢を指図した記事は全く無い。ここにも歴史学者の「書かなかっただけ」解釈の悪癖が如実に現れている。
『記紀』に書かれていることを十分吟味するだけでなく、書かれていない事実をもっと尊重すべきである。結果として邪馬台国が「大和天皇家」と関係ないことが、「倭の五王」の考察に付随して導き出される。
「倭王武=雄略天皇」説が広く流布されているが、成立しえない説であると論じた。これまで歴史学者がなぜこの説に固執するのだろうか。
その理由は、「倭王武=雄略天皇」説が中国史書の時間軸に『記紀』の年代を繋ぎ止める接点になっているからである。天皇の在位年代は、『宋書』夷蛮伝に記載された「倭王武」が宋に遣使を送った昇明二年(西暦478年)を「雄略天皇」在位期間に置くことで、前代、後代の天皇の在位年を類推してきた。
もし「倭王武=雄略天皇」説が成立しないとするならば、再び日本古代史は時の波間に漂い流れることになるだろう。しかしこれは決して不都合なことではない。中国史書に記された倭国の王を天皇に対応させ、所在を大和に求める強迫観念から解放され、もっと多角的な視点から古代史を俯瞰する機会となる。
このような姿勢で『記紀』を読むと、巨大な未整理のデータバンクでありながら、宝の山でもあることに気づく。『記紀』を「つまみ食い」するのでなく、データバンクから史実の断片を抽出する試みを心掛けたい。
二‐一「神功皇后紀」巻第九『魏志』引用の記事
是年(ことし)、太歳己未(つちのとひつじ)。魏志(ぎし)に云(い)はく、明帝(めいてい)の景初(けいしょ)の三年の六月、倭(わ)の女王(じょわう)、大夫(たいふ)難斗米等(ら)を遣(つかは)して、郡(こほり)に詣(いた)りて、天子に詣(いた)らむことを求(もと)めて朝献(てうけん)す。太守(たいしゅ)鄧夏、吏(り)を遣(つかは)して将(ゐ)て送(おく)りて、京都(けいと)に詣(いた)らしむ。
四〇年。魏志に云はく、正始(せいし)の元年に、建忠校尉梯携等(けんちうこういていけいら)を遣(つかは)して、詔書印綬(せうしょいんじゅ)を奉(たてまつ)りて、倭国(わのくに)に詣(いた)らしむ。
四三年。魏志(ぎし)に云(い)はく、正始(せいし)の四年、倭王、復使大夫(またつかひたいふ)伊声者掖耶約等八人(らやたり)を遣(つかは)して上献(しょうけん)す。
四六年の春三月(はるやよひ)の乙亥(きのとのい)の朔(ついたちのひ)に、斯摩宿禰(しまのすくね)を卓淳国(とくじゅんのくに)に遣す。
二‐二『宋書』夷蛮伝
太祖元嘉二年、(中略)讃死弟珍立、遣使貢献、自称使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王、表求除正、詔除安東将軍・倭国王。
(元嘉)二八年、(済)加使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍如故、(以下省略)。
世祖大明六年詔曰、倭王世子興(中略)宜綬爵号、可安東将軍・倭国王。順帝昇明二年、遣使上表曰、(中略)東征毛人、五十五国、西服衆夷、六十六国、渡平海北、九十五国(中略)詔除武使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王。
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