【前回の記事を読む】書かれていることだけが全てではない。『記紀』とは巨大な未整理のデータバンクであり宝の山でもある …

文献・金文の章

第二話 「倭の五王」 と「倭王武」の上表文

西日本六十六国を支配していた倭王はどこに居たのだろうか。可能性の高い地域に北九州地方が挙げられる。第一の根拠は、倭王が「調停者」として臨む場合、朝鮮半島の変事に迅速に対応できる位置にあることだ。

次に東国への侵出が朝鮮半島に対するより遅れたと見なせる上表文の表現である。歴代の倭王が東へ勢力を拡大し、最後に残った毛人の国五十五国の討伐を、西の衆夷や海北より後回しにせざるを得なかった地政学的事情が読み取れる。

『宋書』には「倭王武」は宋の順帝より「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に叙綬されたと記されている(引用資料二‐二)。

倭国を除く五国は朝鮮半島の南半分に密に存在する国々である。倭王は朝鮮半島の五国の軍事的安寧を保つ大将軍位を受けたことになる。もし倭国の中心が大和にあるとすれば、中国地方や北九州を政治的、軍事的に支配下に置く必要がある。

しかし古墳時代は各地に群雄が割拠していると考えた方がよく、安東大将軍の役割いんじを、大和に求めることは陳腐である。叙官に際し中国から印璽を持った使者が大和まで来れば、この叙位が無理であることは一目瞭然だろう。

したがって大将軍位は北九州の豪族に授けられたと考える方が自然だ。北九州地方は、大陸の文化が日本列島に伝わる入り口に位置する。中国史書は、金印を授与された「漢委奴国王」以後、北九州が倭国の中心だと語っている。

『魏志倭人伝』に記された邪馬台国の所在に関して九州説と近畿説の論争がある。近畿説は「倭の五王=大和天皇家」説に依存しているように思える。五世紀に倭王が大和に君臨しているのだから、二〇〇年遡って卑弥呼が近畿にいてもおかしくないとの考えを背景に、旅程や方位をいじくり回した末に成り立つ説である。

「倭の五王=北九州」説の立場を採った時、邪馬台国を近畿に導く意味が残っているのだろうか。『古事記』には邪馬台国や卑弥呼に関する記述は全く無い。『日本書紀』の「神功皇后紀」では「魏志に云はく」で始まる朝貢記事を引用している(引用資料二‐一)。

三九年、「景初三年倭の女王大夫を遣わす」、四〇年、「正始元年……」、四三年、「正始四年倭王……上献す」、六六年、「泰初二年倭の女王訳を重ねて貢献せしむ」の記事が見られる。

ただし前後する国内の記述とは全く関連性がない。『記紀』の編纂者に両者の整合性を得るために、何らかの操作、工夫を試みる意図が全く感じられない。彼らの持っているデータバンクの情報を、単に時系列に合わせて編集、並記したとしか考えられず、女王が「神功皇后」に対応していると読者に思わせる意図があったのだろう。

しかし「神功皇后」や他の天皇、皇子、姫君が積極的に朝貢を指図した記事は全く無い。ここにも歴史学者の「書かなかっただけ」解釈の悪癖が如実に現れている。