途中には同じく卒業した粟津中学の前も通る。
家から5分も歩けば私が通った石山小学校が瀬田川のすぐ傍にある。その頃の瀬田川の水は透明でとてもきれいだったことを思い出す。
先ず最初に通り過ぎる小学校の思い出から語ってみよう。
私の卒業した小学校で松尾芭蕉を知らない人は少ないだろう。か、名前を知らなくても幻住庵(げんじゅうあん)は知っているだろう。
そう幻住庵は近くにある。
私は昭和19年(1944年)の春に小学校に入った。
当時は小学校と云わず国民学校と云った。戦争中はそう呼んでいた。国民学校では祝日に天皇陛下の御真影を拝する儀式があった。校長先生が白い手袋を着けて奉安殿と云う校庭にある建物から講堂の前面の祭壇に御真影と教育勅語を厳かな雰囲気の中運び込む。その間生徒は最敬礼をして深く頭を下げたままでいる。そして教育勅語が読まれる。
たまにきょろきょろあたりを見回す生徒がいると平手打ちをかまされたりする。小さな子供なので吹っ飛んで倒れる。そんな光景を見ていた。
戦争中とはそういうものであった。
私が住んでいた所は田舎で、戦争は遠い存在に見えた。
田んぼに囲まれた学校だったが空襲の退避訓練をしたりした。布頭巾を被って走って逃げ、伏せをして、目と耳を押さえ口と鼻を指で広げる、それが爆撃に遭った時の対処法でそんな防空演習だった。
また毎晩夜になると〝警戒警報〟が出され〝ブンブン〟と音を立てB- 29の編隊が高空を飛んで行く。灯火管制と云って小さな白熱灯の上から小田原提灯のような黒色の管をかぶせ、薄暗い光の中で、ただ静かに〝ブンブン〟と云う音を聞いて夜を過ごすのであった。
B- 29の編隊は琵琶湖を目印にして大阪に向かうといわれていた。ラジオはやがて〝警戒警報解除〟を告げ、〝中部軍情報! 中部軍情報! 敵機は熊野灘を退去せり〟と放送するのだった。大阪を爆撃した後で。
昼は昼とて見上げる空に米軍の戦闘機が飛んで来る。グラマンは翼(よく)の端が直線で、ロッキードは双胴だったので簡単に分かった。あれは〝グラマン〟あれは〝ロッキード〟と子供でも見分けがつくようだった。それが不思議だった。おそらく敵機を識別する事を学校で教えていたのかもしれない。
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