【前回の記事を読む】戦争の役に立つから、合唱部は存続をゆるされた。―学校生活が戦争に染まり、体育系の部活でさえコートが畑になり休部する中…

一年生

この時期の合唱部の目標は、六月に行われる演奏会『夕(ゆう)べ』だった。『夕べ』は正式には『たちばなの夕べ』という名前だったが、部員たちは短く『夕べ』と呼んでいた。

〝たちばな〞は県女のシンボルで、校章は橘(たちばな)の実をあしらったものだし、校歌にも歌われている。だから、合唱部の演奏会も『たちばなの夕べ』と名付けたのだ。『夕べ』は一般市民も集めて有料で行われた。

入場料の大半は劇場の借用料になったが、残りは新しい楽譜や譜面台などの購入費用になり、部の活動費を得るのがこの演奏会の目的の一つでもあった。

基礎練習が二週間ほど過ぎたころに、やっと一年生も『夕べ』のためのパート練習に参加できることになった。練習には楽譜がいる。それは先輩のものを借りて一人ひとりが手で書き写すのだった。演目の候補が十曲ほど選ばれていて、一日一、二曲を借りては夜の間に書き写し、翌日に返す。

写譜には、まず五線紙から手作りしなければならない。市販の五線紙は高価だったし、このころは手に入れにくくなっていた。夕食後に宿題と予習を整えたあと、襲ってくる睡魔と闘いながら、定規を使って五本の平行線を引き、オタマジャクシを一つ一つ写すのは辛い。

しかも、アルトの場合は、旋律の動きが分かるようにメロディーパートも写さなければならない。しかし、写譜を続けていると、自然と楽譜が読めるようになってきた。

「楽譜なんて読めなくても構わないわよ」と言っていたのは、こういうことか、と納得してしまった。

『夕べ』には毎年、新曲を入れるのが恒例になっていた。最近は軍歌のような勇ましいものばかりで、『夕べ』にふさわしい曲がなかったが、ようやく服部良一(はっとりりょういち)の『懐かしのボレロ』に決まった。

この楽譜も一年生が上級生の分まで写譜しなければならない。朋の夜なべ仕事はなかなか終わりそうになかった。

そして、ようやく一年生も全体練習に加われる日がきた。朋には合唱部での初舞台になる。みんなの中で歌うのが嬉しいような、恥ずかしいような、怖いような、落ち着かない気持ちがした。怖いような気持ちをなだめながら練習場の講堂に行くと、集まった中にチエちゃんだけがいなかった。