四
十蔵は『繋ぎの伝兵衛』の舟で琵琶湖を渡り、佐和山の城下に入った。城下から見上げる佐和山の山頂に五層の天守を抱く本丸が築かれている。石田三成によって築かれた城だ。
京の落首に『三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城』とあるのももっともだと頷(うなず)かせるにあまりある豪華さだ。
山上には本丸のほか、西の丸、二の丸、三の丸と備えるだけでなく、隣接する尾根には太鼓丸、法華丸といった曲輪もある。
山城に忍び込むのは、十蔵の得意とするところであった。十蔵は虎之爪(とらのつめ)と呼ばれる指を砂に突っ込む訓練で徹底して指を鍛えており、素手でも石垣を登ることができた。武者返しなどの難所は隙間に五寸釘を打ち込んで登っていく。
三成に関してすでにわかっていることとして、上杉討伐への従軍のため垂井(たるい)を通りかかった大谷吉継を佐和山城に招き、家康打倒のための挙兵の意図を告げ、協力を要請したところ、これを吉継はいったん断ったものの、三成への友情を捨てることができなかったのか、結局協力することにしたということがある。
三成は、奉行をしていた頃はもっぱら伏見城にいて、佐和山城は父の正継(まさつぐ)に任せていた。隠居したいまは、西の丸に在城することが多かった。
十蔵は西の丸に忍び込んだ。城内を見ていささか意外であった。外見とは裏腹に、城の内部はきわめて簡素な造りとなっており、たとえば壁はあら壁のままで、居間も板張りである。
三成は世間ではあまり良くは言われないが、本当は意外といいやつかもしれないと十蔵は三成に興味を持った。