最後尾のその車両は空いており、恭平と同じ年恰好の学生が一人、大きく足を拡げて座席を占領し、少年マガジンを読んでいた。読むべき何物をも持たないことに気がついた恭平は網棚に目をやり、雑誌や新聞を探したが乗り合わせた車両には見つからず、次の車両まで歩いて行った。

網棚で拾ったスポーツ新聞の映画案内欄から、「憂国」の文字が飛び込んできた。

(あの「憂国」を上映しているのか)

独り占めしたいような懐かしさが込み上げてくる。その想いは、放出したばかりの精液と鮮血の臭いがした。

高田馬場で電車を降り、左折して進みパール座の前に立つと、三島由紀夫原作・監督・主演「憂国」のポスターを見つけた。すでに最終上映は始まっている。

ポケットの中の百円玉二枚を自動販売機に投げ入れると、電車の切符みたいな厚紙の券と五十円玉が出てきた。重い扉を開けて場内に入る。

モノクロームの暗いスクリーンの中では、軍服姿の三島由紀夫が軍刀を手に立っている。暗く重いワグナーの曲が静かに流れている。殆ど人気のない客席からは、何本かの紫煙が真っ直ぐ昇っている。その煙の先に「禁煙」の赤い電光板が見える。

恭平が小説「憂国」を初めて読んだのは、高校二年生の夏だった。

あの時の興奮は今も克明に覚えている。読み進むうちに唾液が口内に充満し、気がつくと顎が痛くなるほど奥歯を噛み締めていた。

そして恭平自身は張り裂けんばかりに勃起しており、読み終えた時には身体全体に手淫の後のような疲れを感じていた。

それからというもの、夜毎「憂国」を読み返した。読み返すたびに、武山中尉とその妻麗子の潔癖さと艶やかさは増していき、恭平を虜にした。

それは文学作品に感動すると言うよりも、男性雑誌に綴じ込まれたヌード写真を隠れ視るのに似た、隠微な快感を与えてくれた。

だから、電車の中で拾ったスポーツ紙で「憂国」の告知と遭遇した瞬間から、恭平の頭は雅子の右上がりの文字に代わって「憂国」のイメージに支配されていた。原作を忠実になぞったストーリーの展開は、恭平にとって全て既知のはずだった。

だのに、最後尾の席からスクリーンの二人の愛撫に目を血走らせ、自刃に伴う肉体のうねりや血の迸りに身体中を硬直させ、次の展開を怯えながら待った。

 

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