カフカは、マトリアリーの療養所滞在中に深刻な体験をした。喉頭結核と肺結核の重症患者さんを見舞った際に、ショックで気絶しそうになるような、強烈な体験をした。
この訪問の数時間後に書かれたブロートへの手紙には
「わたしが、ベッドの上で見たことは、処刑よりも、拷問よりも、ずっとひどいものだった。この惨めな生活には、喉頭結核潰瘍の成長を遅らせること以外には何の意味もない!
いずれは、窒息死することになるのだ。発熱や呼吸困難に対する薬を飲んでも、ただ病気を長引かせるだけだ!
感染していない親族や医師たちは、拷問を受けているような患者を訪問して、氷で熱を冷ましたり慰めたりして、惨めな患者を元気づけるために、まだ燃え上がってはいないにしても、ゆっくりと光を放っている火炙り用の薪の山の上に、文字通り処刑の足場を組んでいるだけなのだ!」注3 と記している。
この事件で、初めて自分の病気の深刻さとその脅威、そしてこれから起こるかもしれない事態に直面したカフカは、医師になったクロプシュトックに「拷問を長引かせるくらいなら、モルヒネを盛ってくれ!」と約束させることをすっかり忘れたまま、決して治ることのない病気を抱えて、早々と療養所を去っていった。
実は、その数日後、例のカフカが見舞った最重症患者は、走行中の列車の客車の間に身を投げて自殺を遂げていたのである。
1923年、ついに喉頭まで結核に襲われたカフカは、結核サナトリウムでの治療や、遠方の施設に入退院を繰り返した後、同年4月末には、ウィーンのクロスターノイブルク近郊のキールリングにあった私設のホフマン・サナトリウムに入所した。
最後の恋人であったドラ・ディアマントとローベルト・クロプシュトックが一緒に来て、カフカの世話と看病をしていた。
カフカは、すでに、食事も飲み物も少量しか摂れなくなっており、飲み込むこともほとんどできなくなり、呼吸も会話も極度の苦痛を伴うので、コミュニケーションは小さな紙片と鉛筆に頼っていた。
姉のオットラの強い希望で、ウィーンの「肺病医の王様」と呼ばれていたハインリッヒ・ノイマン教授をはじめとする高名な専門医に、再び相談することになったのであるが、
結局のところ、耳鼻咽喉科専門医のベック博士だけが、カフカ博士の病状は「もはや肺結核や喉頭結核の専門医の助けを借りることができない状態であり、痛みを和らげるにはパントポン(訳者注:モルヒネ、コディン、パパヴェリンを含む合剤)かモルヒネしかない!」という真っ当な結論を導き出していたのである注4。
注1 Kafka, Franz: Brief an Felix Weltsch (Anfang Oktober 1917)
注2 zit. n. Wetscherek, Hugo: Kafkas letzter Freund (Der Nachlass Robert Klopstock). Antiquariat INLIBRIS GmbH, Wien (2003), S. 250
注3 Kafka, Franz: Brief an Max Brod (Ende Januar 1921)
注4 zit. n. Stach, Reiner: Kafka. Jahre der Erkenntnis (2008), S. 604
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