逆上した私は、渾身の力で疾走した犬のような呻き声を上げていた。母を叩き続けた手は、紺色の制服の若い男に止められて動かせない。

「君、何をしている! やめなさい!」

 

私は、空港のロビーにいることなぞ気にもしない。

兄弟の中で私だけが母と旅行に行けて、あんなにも嬉しかったというのに。度重なるいじめの痛みも忘れられるような気がしていたのに。

それら全部がふいになったことにもかかわらず、私には母を止めなくてはならない理由があった。

「やめなさい」

私を制止しようとして制服の男が鋭く言う。その視線が、思わず振り返った私のそれとかち合う。睨みつける私に、困り果てた様子の男。どんな言葉をかけたものかと思っているのだろう。男の薄い唇が、かすかに開いたり閉じたりする。

胸に着けた名札は、ハングルであった。

今から思えば、韓国の航空会社に勤務する職員だったのだろう。

七歳になるまで韓国で生活していた私は、日常会話レベルの韓国語を話せるようになっていた。男が発した短い言葉の意味ははっきり分かった。相手に伝わるよう、男と同じ韓国語で叫んでやった。

「だって、僕を連れて韓国に行くって言うんだ! 悪徳宗教に金を払いに行くって言うんだ! だから、叩いて止めているんだ!」

空港のだだっ広いロビーが、しんとしたような気さえする。

しかしそんなことより、私は母を止めなくてはならないという使命感に駆られていた。

私を制止していた男が、ぶるぶる震える手で私を母から引き離す。

「それならなおのこと落ち着いて。お願いだから」

よく聞けば、懇願する声は韓国語なまりのある日本語へ変わっていた。

職責を果たすべく、怖がらせないように私の手をそっと握った。一方、私は制止されたことが悔しくて、ふて腐れて顔をそむけた。

「希望を捨てないでくれ」

彼がどうして、それほど真剣に私に言ってくれたのか。今となっては、確かめてみるすべもない。

母が男に謝る声を打ち消すように、場内に飛行機の搭乗案内がアナウンスされる。

私はそのまま青ざめた顔の母に手を引かれ、搭乗口へ連れて行かれた。

 

次回更新は4月23日(水)、22時の予定です。

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