【前回の記事を読む】これだと、昨日入院したばかりの妻との面会に間に合わない。兄の骨を拾うことはできないが、火葬場から空港へ引き返し…
第四章 2015年(後)
11月20日(金)
再び、オナラ
昨夜夕食前に体重を量ってみると71.5kgになっていた。
73㎏を割ったことは記憶にない。本来は長い間、78kgの周辺にいた。80kgを超えるのではないかと心配したが、80kgを超えた経験はない。2010年の8月にバーク神父様と一緒にトルコへ行った。パウロゆかりの地を訪ねる旅であった。これが物凄く暑い旅行で、帰ったら3kg減って75kgになっていた。
続いて9月、会社の旅行で台湾南部へ行った。鵝鑾鼻(がらんび)まで足を伸ばした。これもおそろしく暑い日々で、40度近い中での旅行であった。旅行から帰ると体重は73kgすれすれになっていた。しかし73kgを切ることはなく、以後74kgの周辺で安定していた。大きく増えることもなかった。意図せぬ減量ができたのである。
ところが良子にがんが出て、私は73kgを切り、更にあっさり72kgも切った訳である。洗顔しても、頬骨の出っ張りを感じる。私の方にがんがいるのではないかと思う。
12月28日には「がん研有明病院」で、検診を受けることにした。昼間事務所であい子に言った。
「お母さんが退院する迄、酒を断とうかなと思う」
「何で?」
「犠牲を捧げるんだよ。茶断ちというだろう。何かの願いが叶えられるために、自分の好ましいものを断つんだ。いけにえさ」
「そんなことしたら、お父さんが病気になってしまう」
「一生というんじゃない。お母さんが退院するまでだ」
そのつもりでいた。
7時に良子を訪ねた。先に部屋に入ったあい子が、ああ?という声を上げた。私も入ると、良子の鼻にチューブはなく、良子は笑顔である。昨日とはまるで違う。「よかったなあ!」と私は言った。
3日目にしてイレウス管を外し、「保存的治療」を終えたことになる。「オナラが出た」ということで、バンザイした。「ウンコも出た」、更にバンザイした。正に“お通じ”である。「酒が呑める」と言った。良子は怪訝な顔をした。
明日からは半粥の食事が始まるという。ということは点滴も終わるのであろう。腸の完全閉塞が回避できたということで、ピンチは脱したと私は思った。あと何日の入院になるか分からないが、今回は退院を指示されても更に2、3日おいてもらうよう頼んでみる。
北の湖、逝去。実質、史上最強の力士であったと思う。
次回更新は4月20日(日)、20時の予定です。
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