11月19日(木)
兄の葬儀

ANAの8:55羽田発で徳島へ向かった。P4駐車場に車を置いた。

11時に徳島空港に着き、レンタカーを借りて、正午には斎場に着いた。葬儀は午後13時からであった。

参列者はすべて身内だった。

90歳の老人の、それも最晩年は寝たきりになった人の死であるから、突然の驚きはなく、みんなの表情は穏やかだった。私は嫂(あによめ)に慰労と感謝の言葉を掛けた。この人も優しい人である。長男の面倒も見てくれた。長男は姪たちと姉弟のように育った。

老父母が育ててくれたのであるが、それも嫂の優しいサポートがあったからである。良子はこの人の姪である。

兄は仏さんのような人であった。父母を含め私の親・兄姉たちには「慈悲」があった。

私が辛うじて今の心に踏みとどまっていられるのは、この人たちに囲まれていたからである。「兄さんは満足して死んだと思うよ」と私は嫂に言った。

兄は90歳迄生きたのが不思議なほど、体に苦痛を持った人だった。

毎日毎日の排便に苦しんだ。1時間は要した。それに伴って脱肛に近い痔疾があった。

これらの補助を、嫂は生涯続けた。具体的にどのような動作なのか、ほんの表面しか知らないが、大変なことだと思った。

更に「痛風」があった。痛風というものが一般に知られておらず、田舎のお医者さんはなかなかそれと特定できなかった。従って見当違いのクスリを飲んでいた。兄は、酒は一滴も呑まなかった。食べ物も脂っこいものはきらいで、体は痩せ形、痛風にはもっとも縁遠い人である。

随分長く苦しんだあと、ようやく痛風と診断され、適切なクスリを得て、定期的な激痛から逃れられた。しかし足の関節のみならず手の指にまで、夥しい数の瘤ができて、最後まで消えることはなかった。

痛風の痛みは、質としては、私も知っている。

40歳のときに一度、50歳で一度、発作があった。骨にひびが入ったと思える痛みだった。あるいは釘を打ち込まれるとはこんなものかと思った。原因に思い当たるものがなかった。

私はとっさに、これは兄貴のやっている“痛風”ではないか、と思った。

病院へ行ってそれを話すと直ちに血液検査をした。尿酸値が標準をはるかに超えていた。3日ほどで痛みは収まった。