いつの間にか雨は上がっていた。辺りは一面の夜霧だった。骸骨は闇の奥にいつもの松の根元を探してみた。だが草木がカサカサと微かな音を立てているだけで、そこを判別することは出来なかった。
旅館の前まで来ると霧は一層目についた。水銀灯の明かりが乳白色に滲んでいた。厨房に灯かりが点いており、窓の隙間から源造の姿が見えたような気がした。骸骨はその窓に向かって深々と頭を下げた。面を上げた時、一瞬源造と目が合ったような気がした。だがそれは気のせいだったのだろう。
和美の部屋も真っ暗だった。骸骨はほんの一時その窓を見つめていたが、やがてとぼとぼと歩き出した。夜霧の粒がポチリポチリと頬に触れた。
線路に沿って二駅ばかり歩いた。時々貨物列車が轟音を響かせて通り過ぎて行った。静かになると、どこからともなく波の音が聞こえてきた。遠くに灯った信号の赤や黄を目指して歩いていた。そしてどれ程歩いたのだろう。民家の密集した小さな集落に着くと、その駅の軒下の三和土に腰を下ろした。木造の汐枯れした感じの駅が今の自分には相応しいと思われた。
骸骨はひんやりとしたコンクリートの床で膝を抱えていた。少し肌寒さを感じて上着の衿を掻き合せると、何かカサリと音がした。手で探ってみると、それはハガキだと知れた。渋谷医師に出すつもりで買ったままの一枚のハガキだったのだ。
骸骨は暫らくそれを玩んでいた。人気のない集落に灯る裸の電球が侘しかった。また出てきてしまったと思った。こうしてどこにも落ち着く先がないのだろうかと哀しんだ。
ふとあの標本室が目に浮かんだ。小さな窓、壁越しの子供たちの声、そして黴と埃の匂い。今あの部屋が無性に恋しかった。そして懐かしかった。だがそこへ帰るのは逃げることだった。負けを認めることだった。骸骨はぶるぶると首を振ると、渋谷医師に宛ててハガキを認めた。
『拝啓 渋谷先生オ元気デショウカ。連絡ガ遅レテ申シ訳アリマセン。小生モ元気デ暮ラシテオリマス。
外ヘ出テミテ解ッタノデスガ、生キテ居ルトイウコトハ、辛イコトノ方ガ多イノカモ知レマセン。悲シイ事ノ方ガズット多イノカモ知レマセン。デモソレハ心ガ豊カダカラデハアリマセンカ。豊カダカラコソ嘆キ苦シムノデハアリマセンカ。
社会ニ出ルトイウ事ハ、小生ノ考エテイタ様ナ薔薇色ノモノデハアリマセンデシタ。デモ外ヘ出テ良カッタ。アノ暗イ部屋デジリジリト外二焦ガレテイルヨリモ、ズット増シデシタ。
モウスグ夜ガ明ケマス。シトシトト雨ガ降ッテオリマス。デモ小生ハ生キテイテ本当ニ良カッタト思ッテオリマス。
デハ、先生モオ元気デ。 恐惶謹言頓首
新潟県柏崎ニテ 標本室ノ男
渋谷先生 様』
骸骨はそれを記すと郵便ポストに投函した。烏の声が頭上で聞こえ、もうすぐ夜が明けるはずだった。