今の家は沙那美が生まれて二年目、父がローンで買った。さして大きな家ではないが、一階は団地サイズのリビングルーム、客間、キッチン、バス、トイレ。二階は二寝室。一つは書斎を兼ねた夫婦用、もう一つが沙那美の勉強部屋兼用の寝室だった。
両親が気に入ったのは、家が坂道を登り切ったところにあって、玄関から遠く海が見え、街の煌めく夜景が眼下に見えることだった。それに、道路際に一本、菩提樹の大樹 (たいじゅ)があって、道路の東側に建つ我が家を巧く西陽 (にしび)から守ってくれていた。それに宅地側と反対側には道路に沿って自然護岸の清らかな小川が流れていたからだという。
住んでみてわかったことだけれど、西陽を避けるだけでなく沙那美の部屋の窓に近く、夏には涼やかな影で窓を覆い、葉の香りを含む涼風が吹き込んできた。
それに台風のときは海から吹き上げる潮風のしぶきを防いでくれる。しかしこの菩提樹は家の屋根のほぼ西半分を覆っていたから、特に秋の落葉シーズンは落葉が樋に詰まったり、道路を覆ったりして掃除に手間がかかった。でも夏の涼しさをおもえば、あまり苦にならなかった。試験の採点などで忙しく二、三日掃除ができなくても秋の風情と割り切ればこれもまた、秋の哀愁を楽しめた。
それと、沙那美にはこの菩提樹に母にも話したことがない恩を感じていたのだ。
それは中学二年の夏休みが終わり、残暑も遠のいたある日だった。沙那美は学校の門を出たとき、クラスで〝陰の女番長〟と呼ばれている生徒雪絵に、この町のお宮、素戔嗚尊(すさのお)神社の境内に拉致という言葉が当てはまりそうなくらい強引に連れて行かれた。