美沙は慌てて立ち上がり、明かりを点けた。祐介と美沙は目を合わせると、どちらからともなく頷いた。きっと、川村に違いないと思った。祐介は、ドアに向かって歩き出し、ドアノブの施錠を解いて静かにドアを開けた。部屋の明かりに照らされたその顔は、何と安田だった。
安田は、驚いた祐介の顔を見て、不機嫌な表情を露わにした。
「祐介、美沙の彼氏っていうのはお前だったのか。相談に乗るふりして、さんざん俺をコケにしやがって」
安田は手にした包みを土間に叩きつけ、思いっきり踏みつけた。鈍い音がした。どうやら、ケーキが入っているようだった。安田は外に出ると、ドアを叩きつけるようにして駆け出していった。
祐介は、美沙と顔を見合わせたまま、その場に呆然と立ち尽くした。まさか、安田が美沙の部屋を訪ねて来るとは思わなかった。慶子とのことが絶望的な今、すがるような思いで美沙の元を訪ねたに違いない。
祐介が安田に誤解だと言ったところで、信じてもらえないだろう。安田の後を追いかけて弁明する気にもなれなかった。
結局、その晩も川村は現れなかった。その後、美沙は祐介に助けを求めることをしなくなった。果たして川村は、美沙を諦めたのだろうか。
それから一週間ほどして、祐介は神田神保町(かんだじんぼうちょう)の古本市で美沙を見かけた。声を掛けようとしたら、店の奧から川村が出てきた。祐介は、思わず後ずさりして本棚の陰に身を隠した。
美沙が笑みを浮かべ、川村に親しげに語り掛けているのが見えた。どういう事なのか、一瞬自分の目を疑った。しかし、すぐに事情を合点した。美沙の部屋を訪ねてくるはずだったのは、実は川村などではなく、初めから安田ではなかったのか。目の前が真っ白になった。
その晩、祐介はアパート近くの安スナックで酒を飲んだ。安田と慶子の深い悲しみを同時に追体験しているようだった。カウンター越しから、小太りで厚化粧のママが色々と話し掛けてくれる。しかし、何も耳に入ってこない。ただ、相槌を打つだけだった。
酔った勢いで香澄に電話を入れた。しばらくぶりだった。長い発信音の後、やっと電話がつながった。
「今、何時だと思ってるんだ。いい加減にしろ」
怒声の後(あと)、電話がガチャリと切れた。香澄の父親だった。
祐介は、自業自得の言葉を自分自身に何度もぶつけた。
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