当地は伊達、佐竹、蘆名らの有力大名が勢力争いを繰り広げ、戦が多かった土地であり、前田澤家は生き残りをかけ、主君を替えることもあった。兵部は、二本松義継が伊達政宗に滅ぼされた直後、政宗に一時仕えていたが、すぐに裏切り蘆名家へ走り、伊達勢とは幾度も交戦。

しばし政宗らを翻弄し、苛立たせている。

「兵部殿、ここが最後のご奉公の場所か……そうさのう。儂もその気概で暴れようではないか」

「その意気じゃ! 肥後殿。儂も肥後殿と同じく、鉄砲隊を率いて参陣仕った。ご同役、ひと働きしようぞ……ああ、そうじゃ。儂は代々『前田澤』を名乗っておるが、本姓は肥後殿と同じ『伊藤』なのじゃ。故に、貴殿に声を掛けたのでござる。これも何かの巡り合わせかもしれぬな」

「兵部殿、これは不思議な縁じゃのう。よし、酒じゃ。互いに杯を交わそうぞ」

前田澤(伊藤)兵部少輔。主君・伊達政宗のかつての仇敵が、こうして今は政宗軍の貴重な戦力となっている。また、思いもかけず同姓の武将と出会った。戦場での実に不思議な巡り合わせであった。


人取橋合戦 天正一三年一一月(一五八六年一月)、安達郡人取橋(今の福島県本宮市)で起こった、伊達家対二本松・佐竹・蘆名各家連合軍との戦い。伊達勢は圧倒的な手勢不足で苦しめられるが、二本松連合軍も内紛等で足並みが乱れ、事実上の引き分けに終わる。

小手森城落城 小手森城(福島県二本松市)は大内勘解由定綱の城だったが、天正一三年(一五八五)八月、伊達政宗が攻め落とした。その際政宗は、城内に残る将兵約千人、犬に至るまで命ある者全てを殺戮し、「小手森城の撫で斬り」と周囲を震え上がらせた。大内、前田澤兵部少輔は、命からがら城を脱出している。

 

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