「私も到頭、我慢ができなくなってね。お父さんに無断でダムの事務所を飛び出したんや。それで、一人で名古屋行きのバスに乗ってな。あまりにも情けなくて、バスの中でずっとオイオイ泣いてた」
その時の思いが込み上げてきたのか涙ぐみながら話す母に、
「何で名古屋なん? 何か当てでもあったの?」
僕が尋ねると、
「もう、離婚しようと思ってね。取り敢えず、名古屋に行ったんさ。若い頃は名古屋で働いてたからね」
僕は母に対して以前から感じていたことがあった。それは、性格が相当に短絡的であることと、加えて羨ましいくらいに行動力があること。話を聞き改めてそれを感じながら、
「それで、名古屋のどこに行ったの?」
そう尋ねると、母が真っ先に思いついたのが、結婚するまで世話になっていた「夕月」であった。十九年ぶりに訪ねた「夕月」は、当時と同じ上前津にあった。改装して以前よりも大きくなっていた。
「店を訪ねると、世話になった女将さんは既に引退していて、実の弟が大将でね。その大将が女将さんを呼んでくれてね。女将さんの顔を見た途端に泣けて……泣けて……」
「夕月」の前女将は、母の話を聞いてくれ、おまけに食事までご馳走してくれた。
「女将さん。私、主人と離婚しようと思います。ここで使ってくれませんか?」
母が涙声で切り出すと、
「かまわへんけど、よお考えないとあかんよ。店をやめて結婚したんやろ。もういっぺん、旦那さんとちゃんと話しなさい」