【前回の記事を読む】語られる両親の過去――父との離婚を考え逃げ出した母、バスの行き先は名古屋だった…
Ⅱ 東近江 一九八〇
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父と母が結婚して一年後に僕が生まれるのだが、父はその時期はまだ牟婁地区の工事現場にいた。牟婁地区での仕事が終ると、再び加藤工業の各地の土木現場を廻ることになった。母は僕が幼いこともあり、夫の現場には付いていかず実家の近くでの借家住まいを選んだ。
これは僕のために父が望んだことでもあったが、それ以降、宇田川ダムでの工事現場のように、母が飯場での賄いを手伝った僅かな期間を除くと、父は、躰を壊し中牟婁町に戻るまでのほとんどの年月を、一人で工事現場に建てられたプレハブの飯場で過ごした。
父が母の故郷に自宅を新築したのは昭和四十三年のことで、僕が小学校一年生になる春であった。その後は、赴任先の現場から二か月に一度の割合で一週間ほどの休暇をとり、家に戻るという生活を続けた。自宅で過ごすこの時間を父は唯一の楽しみとしていた。
僕が大学を目指し京都に出たその二年後に父は病を発症する。結局父が五十八歳で亡くなるまでに、父と母と僕との三人で一緒に暮らした期間は僅か一年四か月ほどであろうか。純粋に父と母との暮らしは新婚生活での一年ほどと、躰を壊し中牟婁町に戻った二年余りの期間である。それだけが母が父と共有した記憶としての時間であった。