【前回の記事を読む】親の勧めでお見合いをして、一週間後に結婚したという両親。突然逝ってしまった父の遺影を前に、母は父との思い出を語ってくれた

Ⅱ 東近江 一九八〇

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一九八一年の三月に、宇田川ダムは完成した。その完成を間近にした、一九八○年の初夏の休日であった。僕たち家族三人は彦根城を見学した後、彦根駅前に新しくできた中華料理店で食事をした。

母は一九七八年の冬から父の現場事務所に手伝いに来ていた。働いている職人や人夫の食事を世話する賄い手が不足していて、母が急遽工事現場の飯場に手伝いに来ていたのである。

工事で働く人夫や型枠大工と呼ばれる専門職、それに各種土木工事に関する人手の手配は、その工事現場の責任者の腕の見せ所であった。時代は高度成長期で売り手市場である。

とりわけ建設工事現場での人手不足は深刻であった。そのため農家の閑散期になると、東北や九州の農家の人たちを人夫として雇うのである。いわゆる、季節労働者である。

そして、このような季節労働者を如何に確保できるかが、現場責任者の才覚にかかっていた。

「私がダムの飯場に手伝いに行った時は、三十人近くの土方の人たちがいた。その内、二十人くらいは東北の人たちやったと思う。その東北の人夫を連れてきていたのが、七十手前の女の人でね。飯場での賄いをしてたんや。その人が本当に不可(いけず)な人で、無茶苦茶意地悪された」

母曰く、責任者である父の妻であると知ると、相当に裏で意地悪をされた。自分が人夫を連れてきて束ねているという、自負とプライドが母を苛める動機となっていたようだ。