しかし、地上の移動とは全く異なり、船舶技術も未熟で、途中で引き返すこと、止まることが海洋では許されない。危険を知りながら、舟人がそれでも大海に乗り出した心中を察すれば、生き残るには新天地への旅立ち以外に選択肢はなかった。

正否の分岐の確信を持たないまま、少なくとも10人以上の集団が乗り込んだ信頼性の低い小舟が次々、航行期間も定まらぬまま、生死をかけた漂流に旅立ったのだ。

成功と失敗の確度は不明だが、列島伝いに島を利用しながらでも本土に到着するまでは、海流を利用することを学習して存外早かったものと推定しうる。恐らく、数万年前から朝鮮半島からの渡来を主に南方諸島、北方の千島列島、樺太方面から複数の民族が移り住み始めたといえる。

日本民族形成の過程は単純には語れないが、包括すれば渡来集団が、相互に分離独立と吸収併合を繰り返し、混血しながら固有の文化、風習を兼備した日本人が誕生したと考察するのが至当であろう。

当初、日本各地に渡ってきた複数の集団は規模が小さく、海岸沿いの定住可能な平地で当面の生活を開始する。地勢的に日本から太平洋を渡ることは不可能に近く、逃げ出すことも出来ず、領地も簡単には増やせないので、対立と抗争が部族にとって致命的なことは直ぐ理解した。

当初は他集団との広範な接触を避け、同族内で採集、漁労、狩猟の採集により生活の糧を確保しながら、長い時間をかけて交流範囲を拡張していった。異なる背景を持つ集団が糾合される過程は複雑で時間を要した。

食料、衣服、住居といった生活の質の向上に比例して、人口が増加してくると、集落は巨大化し、穏便な地域間交流が始まる。地域変化の最大の要因は人口増加によるが、生産様式の変革は新たな対立の火種となる。暫くは穏便な地域的結合が進み、部族集合体は拡大した。

圧倒的強大な勢力が小集団を統一することなく、緩い関係を保ちつつ、定住地で独自の文化、風習に従って存続出来たのだ。多くの部族集合体が各地域で共生する環境が整い、血で血を洗う殺傷、暴力行為、その結果生じる憎しみの応酬が少なかった。

このことは日本人の民族意識や国家観を醸成していく過程で重要な役割を果たす。しかし、散在する集落単位では有機的結合が欠けていた。

国家として生き抜くには部族統合し、大陸国家に拮抗する国力を醸成する課題があった。安易な統合の手段は、武力による。しかし、お互いが損耗し合う、怨讐の連鎖を起こす戦いによる決着ではなく、最高権威者(大王)を部族間の総意に基づき、選任する智恵を生み出したのである。日本の基本的国体はこの時に決定したと見られる。

 

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