【前回の記事を読む】私の片耳をピッタリと両手で囲い、舌が上あごからピチャッと離れる音まで聞こえるいやらしいひそひそ声で、えげつない話をたくさん聞いた。

2章 一本道と信じた誤算

そうした手紙類は、母に似て潔癖症の兄のこと、自分の結婚前にすべて燃やしてしまい、いまは一通も残っていない。無邪気な青春時代の思い出に取っておきたかった、とあさみは今になって残念に思う。

だが一枚だけ、しわくちゃになったのを持っていた。それは、或るとき理緒子に知られてしまった内容のもので、古いノートの間に挟んだまま、兄には出さなかった。

あれは二年生になったころだったか、休み時間が終わってもうすぐ授業というとき、あさみが教室に戻ってみると、理緒子があさみの学校カバンを抱えて、中からノートや筆箱、財布、ハンカチ、生理用品などを一つ一つ、席に着いた皆に配って歩いていた。

いたずらっぽい笑みを浮かべ、これあげる、これあげる、と気前よく順番に皆の机の上に置いて回ったのだ。そのカバンが自分のカバンだと気づいたのは、

「見て見て!」

と、配られたものを上にかざして誰かが大騒ぎをし始めたときだ。

それは兄宛てのエアメールの薄く透けた便せんだった。あさみは悲鳴をあげて駆け寄り、くしゃくしゃになるまでもみ合ったのち取り返した。急いでほかの中身も取り返して回ったが、理緒子は空っぽになったカバンを高く掲げてみせて、愉快愉快、と笑い転げていた。

「どういうつもりなの!」

このときばかりはあさみも怒った。すると理緒子はもっと怒って頬っぺたを精いっぱいふくらませ、ツンと頭をそびやかして席に着く、というおかんむりようだった。

先生が教室に入ってきたため、あさみは理緒子の真後ろの自分の席に着きながら、そっとカバンの整理をした。涙ぐみながら、くちゃくちゃにされた便せんを広げてみると、運の悪いことに最初からこう始まっていた。

『私も理緒子のことを愛していると思うときがあるの、お兄ちゃま。理緒子と一生をともに生きるなら、幸せと同時に、何ものにも負けない強い力を手に入れることができるって、私だって思うの。

もし絶海の孤島に理緒子と二人きりで流されたなら、恐怖だって退屈だって金輪際知らず、さぞかし毎日を楽しく暮らせるでしょう、とほんとに思うの。

あの人は生活を創造する名人。笑顔を作り出す達人。好奇心がはんぱじゃなくて、無限に豊か。まったく驚くべき女の子だわ。お義姉(ねえ)さんになったらいいなあ、って心から思うんだけれど、でも何度も言うように、お兄ちゃまの望みがかなう可能性は、たぶんゼロ。理緒子には実際ボーイフレンドがゴマンといるんだから』

あさみは便せんをしまい込み、真ん前の席の理緒子の背中を見やった。目の粗い紺のセーターを着ていても、中央の背骨がわかるほど痩せて細い。授業を始めた先生の目を盗んで、あさみは30センチ定規でその背中をつついた。

理緒子は、痛い、というように反応し、振り返ろうかどうしようかと迷っていた。つまり、怒り続けようか、仲直りしようか、というわけだ。彼女は頭を斜め下に伏せて、先生にけどられないよう下のほうから後ろのあさみと目を合わせた。

あさみがほほ笑むと、理緒子の細い鼻にしわが寄って、厚い唇の間から舌が出た。あさみは声を立てずに笑い、仲直りが完了した。