〈3人の高校生活(1970年代半ば頃)〉
その見合い相手であった母親は、山間の大地主の家に生まれ、戦争そのものは回避できたが、女学校時代に農地改革の財産没収で、一家は予想だにしなかった苦労をしたものの、東京に憧れて、高校に入る時に親戚を頼って一人で上京した。
戦後のハイカラで自由な教育を受けたからか、都知事選挙で青空バッジを付けたり、信奉する全国友の会活動に勤しむ、リベラルで理想に燃えるタイプだった。
年齢が10歳ほど離れていたためか、見合い結婚後も夫婦喧嘩などとは無縁の温かい家庭で、一人っ子の朗子は伸び伸びと育った。
教育に熱心な家庭だったので、小さい頃から習字・バイオリン・油絵など色々な習い事をしたり、冷水摩擦の習慣があったり、黛敏郎の「題名のない音楽会」を家族で視聴していた影響もあって中学時代は合唱部に入ったりで、高校でも選択肢はいくつもあったが、「せっかく高校に入ったのだから、何か新しいことを……、そうだスポーツをやって、身体を鍛えてみよう」と思っていた中、球技などとは違い、未経験者でもあまりハンディがなさそうな水泳部に興味をいだいた。
深田宏之(フカダヒロユキ)は、中肉中背で、七三分けの髪型に黒縁のメガネと地味であったが、長髪姿や服装自由の校内で、専ら学生服姿なので、逆に目立っていた。
住まいは、杉並区の古くからの家が立ち並ぶ住宅街にあった。
サラリーマンの父親と、肝っ玉母さんで専業主婦の母親、そして、宏之を長男とする男3人兄弟の5人家族で、賑やかな家庭であった。
父親は杉並区で育ち戦時中は疎開なども経験したが、そのおかげで、東京で連続した空襲(罹災者が約100万人と言われる東京大空襲も含め、1年足らずの間に100回を超えた)も避けることができ、戦後は東京に戻って順調に大学を卒業して、専門商社に勤める転勤族だった。
母親は関西出身で戦時中には色々な苦労もしたが、学業優秀であったため、短大の学校推薦を得て専門商社に入った。
そこでの労働組合活動(典型的な御用組合ではあったが)で、たまたまオルグに出向いた父親に、初々しいシュピレヒコールの姿が印象的だったようで見初められ…職場の同僚からは「猫を被ってるんちゃうかなぁ」とも思われたようだが…、社内結婚で結ばれて、寿退社した。