二
「あらあら、そんな顔しちゃって」
掃除を終えた母の口元は、心配そうな声を出しながらも悪戯っぽくにやついている。
「引っ越して転校しちゃうと、好きな子と会えなくなるから嫌なんでしょ」全力で首を振る息子を見て、母は嬉しそうに微笑んでいる。
「大丈夫、引っ越し先はすぐそこ。同じ町内だから転校しなくていいの」
彼が目を輝かせると、母は少しだけほっとした顔になった。息子の悲しい顔は見たくないだろうし、もし激しく反対されれば、ただでさえ面倒な引っ越しが余計煩わしいものになってしまう。
「でも、どうして引っ越すの?」
母の視線が宙を彷徨う。そうやってしばらく考え込んだ母は、急に彼を抱き上げて満面の笑みを向けた。
「ずいぶん重くなったわね。こないだまであんなに軽かったのに」
抱っこされるのは幼稚園以来だった。気恥ずかしくなって抵抗するが、まだまだ母の力にはかなわない。しかも心地好い体温がじんわりと伝わってきて、なけなしの意地をみるみる溶かしていく。
「国生も、もういろんなことがわかる歳だもんね。引っ越しをするのは、家族が増えるから。これからお父さんと一緒に暮らすの」
「死んだんじゃないの?」
その問いを予想していたのだろう。母は落ち着いた口調で即答した。
「本当のお父さんはね。来月から一緒に暮らすのは、新しいお父さん。とっても優しくていい人よ」
母は笑顔を見せつつも、真剣な目で息子の反応を窺っている。大きくなったとはいえ、国生はまだ九九も言えないほど幼い。新しい父という言葉をどう受け取るかは、母にも予想がつかないのだろう。
「偽者のお父さんならいらない。おじじがいるし」
「そんなこと言わない。今週末うちへ来るから、ちょっと話してみなさい」母は渋い顔をして、再び台所を片づけ始めた。自分のせいで不機嫌になってしまった母を元気づけたい。でも、新しい父を簡単には認めたくない。国生の胸の中で、悩ましい葛藤が火花を散らす。
「そうそう、玄関に回覧板があるから、本田さんに持って行ってくれる?」
本田とは、同じアパートの上の階に住む家族のことで、そこには同じクラスの本田範子(のりこ)がいる。彼女の家庭にも父がおらず、母と娘の二人暮らしだ。
「戻ったら、身の回りの物を箱詰めしなさい。そのくらいはできるでしょ」
「えー、遊ぶ約束してるのに……」