二
思い切って扉を開けると、居間の座卓に肘をついて座っているのは間違いなく父だった。
仕事着のジャケットを足元に脱ぎ捨て、ネクタイはだらしなく緩められており、片膝を立てて携帯電話と軽薄な会話に興じている。父は国生に気づくと、裸を覗かれたような顔をしてしばらく黙り込んだ。
「──なんだ、いたのか。学校はどうした」
上擦った声、平静を装う薄笑い。痛々しいことこの上ない。しかも授業参観の振替休日だと説明すると、はっとした丸い目をする始末。参観日のことは聞いていたはずだが、興味がなかったのか忘れていたらしい。
居たたまれなくなったのか、立ち上がった父はそそくさと国生の横を通り過ぎて廊下に出た。
「今日は仕事じゃないの?」
わざと無邪気に訊いてみる。
「仕事で近くに用があってな。ついでに寄っただけだ。しばらくしたら、また出かける」
気のない声で答え、慌ただしくトイレに逃げ込む父。トイレの中から、微かに話し声が聞こえる。電話の続きを始めたようだ。
聞きたくもないのに、浮ついた話し声は勝手に耳の奥へ滑り込んでくる。これが自分の父。無性に情けなくなり、耳を塞がずにはいられなかった。
話し終えた父は、水を流して用を足したふりをすることもなく出て来ると、何食わぬ顔で身支度を始めた。すぐに出かけると思いきや、棒立ちになっている国生の前に屈み込んで視線を合わせてくる。
「休みなら小遣いがいるだろう。母さんには内緒だぞ」
財布から一万円札を取り出した父は、それを国生の前に差し出した。予想外の不気味な笑顔に、思わず後ずさる。
「どうして内緒にするの?」
父の手が、国生の肩に乗った。これほど打ち解けた態度は何年ぶりだろう。
「お前も大きくなったから、遊ぶ金が欲しいだろう? でもお前を甘やかすと、母さんに叱られるんだ。この小遣いも、バレたら取り上げられるかもしれない。だから内緒だ」
そこまで言うと、父は急に深刻な顔をして、
「国生、父さんは午前中、帰って来なかった。そういうことにしておいてくれ。国生と父さんだけの秘密な」と、他に誰もいないのに小声になって囁いた。
これがどういう意味なのか、十一歳の国生にも何となく想像はつく。ここで小遣いを受け取れば、自分は父と何らかの取り引きをしたことになるのだろう。
一向に受け取らない国生に痺れを切らしたらしく、父は溜め息まじりに立ち上がった。珍しく愛想がよかった父は、もういない。廊下の途中の階段に一万円札を放り投げて、普段の出勤時のようにせかせかと革靴を履く。