「小遣いはそこに置いたからな。忘れずに拾っておけよ」
何が何でも小遣いを押しつけて、黙らせるつもりのようだ。国生は小遣いを突き返す代わりに、玄関でジャケットを羽織る父の背中へ言葉を投げつけた。
「さっきの電話、誰から?」
振り向いた父の表情は、ぎこちなく強張っている。その視線は驚くほど空虚で、どこまでも冷たい。
「なぜそんなことを訊く」
途端に険しさが増した父。想像以上の反応だ。
「だって、仕事っぽくなかったから」
「そうか? つき合いが長いお客さんだからな。父さんはこれからその人のところに、難しい仕事の話をしに行く」
落ち着きを失った目が、袋小路に陥った小動物を思わせる。そして残念なことに、目の前でそうやってうろたえているのは、曲がりなりにも自分の父──。
「小遣いが足りないなら、また帰ってからな。よろしく頼んだぞ」
息子の視線を退(しりぞ)けて、玄関の扉を乱暴に開け放つ。国生は去りゆく父の背中を見送りながら、心の中で悪態を繰り返した。
毎日、家族から逃げるように出かけて行く男。これが、あれほど憧れていた父。逃げるくらいなら、もう二度と帰って来なければいい。
「父さん」
閉じかけた扉の隙間へ、咄嗟に呼びかけた。
「さっきの電話の相手、女の人だよね?」
振り返った父と一瞬だけ目が合ったが、目線はすぐに虚空へ逃げた。
玄関は音もなく閉まり、あとには静寂だけが残った。
今の問いは、父の耳に届いただろうか。父の言いなりになどならないと、はっきり伝わってくれただろうか。階段に残された一万円札を小さく折り畳み、ポケットの奥へ捩じ込んだ。これは拾ったことにして母に渡そう。あの父に返すより、そうするほうがずっとましだ。
室内の静けさに耐えられなくなって、外へ出た。行き先が定まらないまま、午前中の閑散とした住宅街を進む。しばらく無心になって歩いていると、急に足が止まった。
目が勝手に、二階建ての四角い建物へ吸い寄せられる。現在の借家に引っ越す前、母と二人で住んでいたアパートだ。
冷たい春風が胸騒ぎを運んで来た。誰かの顔を思い出しそうになって、慌ててその場を立ち去る。アパートを足早に通り過ぎ、充分遠ざかったところで少しだけ振り返った。
【前回の記事を読む】「新しい父はどんな幸せをもたらすだろうか」そう期待していたが、実際は何も起こらなかった。無害な父を演じるばかりで.....
次回更新は3月1日(土)、20時の予定です。
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