私とカイト地名の出会い

私は史学も民俗学も独学でかじったのみの趣味の研究者です。昭和一七年、名古屋市に生まれ、空襲が激しくなって父母のふるさとである岐阜県郡上八幡の山奥へ疎開してそのまま現在に至っています。

岐阜県立郡上高校を卒業後、日本電信電話公社に入社。五二才で中途退職して、小さなカフェを営業しながら町議会議員三期のほか趣味の木工と郷土史や地名の研究、自然保護の立場での人工林の整備等を経験しました。

私の家が縄文遺跡に接していることを知ったのは、中学一年の頃だったと思います。子供の頃育った家の屋敷から一〇〇メートルほど離れたところに、その頃は地元小中学校教員の寮がありました。現在の私の家が建っている場所ですが、やはり同じ縄文遺跡に接しています。

当時担任の先生がその寮に泊まっておられたので、夜、遊びに行って、この周辺は縄文遺跡であることを教えていただいたのです。早速次の日曜日に先生の案内で畑や田んぼを歩き回り、縄文遺物の収集をしたのですが、当時は現在のように耕地整理もされておらず、探し始めてすぐに石鏃(せきぞく、硬い石製の矢尻)数点と縄文土器のかけら数点を発見したものです。

それが今から二四〇〇年以上前の縄文人により作られたものであることを知り、驚くと同時に不思議な感動で胸が高鳴ったことを鮮明に憶えています。

   

【イチオシ記事】喧嘩を売った相手は、本物のヤンキーだった。それでも、メンツを保つために逃げ出すことなんてできない。そう思い前を見た瞬間...

【注目記事】父は一月のある寒い朝、酒を大量に飲んで漁具の鉛を腹に巻きつけ冷たい海に飛び込み自殺した…