安本の背後をさりげなく見ると、前日と同じ山伏が九字(くじ)を切っている。安本は立ち上がると、周りを気にしながらエレベーターの方に向かって歩いていった。入れ替わりに竹村が俺の前に現れた。ソファーに座ると、俺に微笑みかけた。

「松岡さん、おはよう。やる気になったみたいですね。さっきの人は経理の安本さんでしょ。身のこなし方とか格好いいですよね。さすが空手マンですね」

朝からこいつは何を言い出すのかと思ったら、男の品定めかとあきれてしまった。ただ、竹村の社内通には驚かされることもある。

竹村は足を斜めにそろえてミニスカートの上にバッグを置いている。細く長い足に目を奪われそうになる。安本ではないが、竹村と対座しているところを見られたら誤解を招くと、慌てて立ち上がった。

「松岡さん、もう行くんですか? 私にも安本さんとの話を聞かせて下さいよ」

竹村は歩きかけた背中に向かって甘い声を投げかけてきた。困ったなと思いながら振り返って、ひきつった笑顔でひと言返事した。

「ごめんね。また今度」

エレベーターに向かうところで、偶然大下専務のお成りに出くわした。

(よっしゃ)

鞄を脇にはさんで両手を組むと合わせた人差し指を専務に向けた。

赤い目をした大蛇が札束をくわえてとぐろを巻いている姿が見えた。おつきの者に方向を変えていくと、小蛇が赤い舌をチョロチョロ出している。生臭く攻撃的で執念深いものが漂ってくる。

(こいつは手強いな。どうする太郎。神仙老人、知恵を授けて下さい)心の中でつぶやいていた。

「松岡さん、何してるの? 忍者の真似事?」

振り向くと、竹村が後ろに立ってニッコリしている。さりげなく手を解き鞄を持ってエレベーターに向かって歩き出した。竹村は後を追いかけてきた。

「ねえ、教えてよ。今の忍者みたいな手の組み方で何をしてたのか。誰にも言わないから」

竹村はエレベーターを待っている俺の横に張りついて「ねえ、ねえ」と子猫みたいに甘い声を出す。

弱ったなと思っていたら、エレベーターのドアが開いたので一足先に人混みの中に紛れ込んだ。(はあ)ひと息吐いていると、スーツの端が引っ張られていた。(うーん?)後ろに顔を向けると、竹村が人と人の間から手を伸ばしているのが見える。

朝から脱力していくのが自覚できた。エレベーターが三階に止まりとびらが開くと同時に飛び出そうとしたが、竹村の引力でスタートダッシュできずにビリになってしまった。

  

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