安田がこの部屋で美沙と一夜を明かしても、男と女の関係は何もなかったと言っていたが、本当に何も起こらずに朝を迎えてしまった。狭い空間に男と女が夜を明かしているということを意識させない術を美沙は心得ているのであろうか。祐介は、部屋を出るとき、目の前の十分過ぎる大きさのベッドと魅力的な美沙を眺めて、今更ながら苦笑した。
外は、珍しく朝霧がかかっていた。アパートと隣の住宅との境に植えられている山茶花(さざんか)の花弁に細かな露が付いて、それに薄日が差しピンク色にきらめいていた。国立駅のトイレで祐介は何げなく鏡を覗くと、美沙と楽しく会話していた時の顔をそのまま引きずっている自分がいた。
祐介が荻窪のアパートに戻ると、入り口の状差しにメモ書きが挟めてあった。
「シオンで七時まで待っていました。どうしたのか心配しています。香澄より」
祐介は、しまったと思った。昨日、香澄と吉祥寺にあるカフェレストランで夕方六時に会う約束をしていたのだった。これまで人と会う約束を忘れるなどということはなかった。まして香澄と会うことを忘れるなんて信じられなかった。失意と後悔に、浮ついた気持ちから元の自分に引き戻され、その後は、何も考えたくない気分になった。
部屋の布団に潜り込むと猛烈な眠気に襲われ、そのまま深い眠りに落ちていった。
祐介は、夢を見た。美沙のアパートの門扉に手をかけると、葡萄の蔦が両腕と両脚に絡まってきて身動きがとれなくなり、今度はあの不気味なトカゲたちが蠢(うごめ)き始め、その蔦を伝って祐介の胸元へと這い上がり、ついには口や鼻、そして耳に潜り込もうとするのであった。
祐介は必死にもがくが、体は羽交い締めにされたように動けず、助けを求めようにも声が出ない。トカゲが冷たい足を這(は)わせ頬を伝い祐介の瞼に辿り着いた。そして、その冷徹な瞳と目が合った。
すると、祐介は自分の発した悲鳴に驚いて目が覚めた。掛け布団を蹴り出していた。上半身を起こし、アパートの住人に気付かれはしなかったかと、周囲に耳を澄ました。
しばらく、布団に座り込んだままボーっとしていた。香澄に詫びの電話を入れようと思い立った。しかし、どうにも気が進まず、電話に手を伸ばすこともしないまま、また布団に潜ってしまった。目をつぶると、今度は美沙の姿が現れた。
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