第3章 香澄のこと
祐介はその頃、バイト先の新宿のデパートで知り合った隣の売り場のバイト娘と付き合い始めていた。名前は香澄(かすみ)といい、売り場ですれ違うたびに笑みを浮かべるので、閉店後にお茶でも飲もうかと誘ってみたら付いて来た。まだ幼さが目元や口元に残る色白で小柄な娘だった。高校を出たら看護学校に進みたいという。
或る日のこと、祐介は、香澄と上野の国立西洋美術館に出掛けた。当日は、常設展だけなので館内は訪れる客も少なく落ち着いて絵が観られた。香澄が立ち止まる絵に、祐介は知っている限りの解説を加えた。
すると、係員がツカツカと歩み寄って来て、お静かに願いますと注意を受けた。二人は顔を見合わせ、首をすくめた。実は暇と金があれば、よくここに足を運んでいたのだ。祐介の難しい話にも、香澄は微笑(ほほえ)みながら頷いてくれた。
無口な娘だった。普段から口数は少ないようで、一緒にいても会話が弾むということは少なかった。しかし、話題がなくとも間が持たないということはなかった。それが自然であった。むしろ、一緒にいるだけで、何故か心が落ち着き癒される。
美術館を出て、上野駅へと向かった。公園口前の横断歩道で信号待ちをしていると、祐介は向こう側に美沙の姿を見つけた。美沙は隣の男に何か話しかけている。あれが、安田が言っていた美沙の男かと思った。中背の痩せ細った風貌で、長髪の間から鋭い視線をあちこち向けながら美沙に言葉を返している。
信号が変わり、男はケモノのような鋭い眼差しをこちらに向けた。ああいう男が好みなのかと思った。美沙もこちらに気付いた様子だったが、人波が交わるとお互いを見失い、そのまま横断歩道を渡り切った。
翌日、祐介が学生食堂で昼食をとっていると美沙が現れた。
「祐介君、昨日上野にいたよね?」
口にカレーとご飯を詰め込んだまま頷いた。
「一緒にいた子、誰なの? ひょっとして彼女? 可愛い子じゃない」
美沙は、矢継ぎ早に話す。祐介は口の中のものを一気に飲み込んで、コップの水を口に注ぎ込んだ。
「榊さんといた人こそ、ひょっとして彼氏?」
「いや、ただの友達。でも、しつこくされて困っているの。川村(かわむら)君といって学園祭の時に咲子から紹介されたんだけど、最近は毎日のようにアパートを訪ねてくるのよ」