谷本先生は英児を5回でマウンドから降ろしてレフトに回した。この日はフォアボール一つだけでノーヒットピッチングだった。むろん、変化球どころか全力投球のストレートもなかった。6回、7回は桜井が相手打線を無難に抑え、日吉南は1回戦を7 対0の完勝で終えた。

こう言ってはなんだが、地区で相手にしているのは仁成学園中だけだった。

僕は3打数2安打で3打点を挙げてチームの得点の半分近くを稼ぎ出した。

試合が終わると、両親が嬉しそうに寄ってきた。

「太郎、お前が毎日御嵩神社の階段でダッシュしていたり、官舎の前で素振りしたりしていたのは見ていたが、その成果だな。それにしても沢村君はものすごいな」

「うん、あれでもまだ全力は出していない。仁成学園中あたりは絶対に偵察に来ているからね。手の内を見せるわけにはいかないよ」

すると、そこに京子おばさんが姿を見せた。母は駆け寄って挨拶をした。

「沢村さん、湯浅太郎の母です。いつも息子がお世話になって」

京子おばさんは本当にきれいな人だった。往年の映画女優のような気品のある人で、名門のお嬢様だったのに、僕ら庶民を見下すようなことは微塵もなかった。

「いいえ、湯浅さんですわね。PTAでお見掛けしてから、いつかご挨拶したいと思っておりました。沢村でございます」

「いつもうちの息子が図々しく別荘まで押しかけて、ご迷惑ばかりおかけしております」

父も頭を下げてくれた。

「とんでもございません。家族以外に心を開こうとしなかったあの英児が、今ではすっかり明るくなって。太郎君は、英児のために手話まで勉強してくれたって聞いてます。そうね、太郎君」

僕はさすがに照れた。

「いえ、英児、いや英児君のボールを受けるなんて、普通出来ない経験です。僕がチームでレギュラーを張っていられるのも、彼のボールを捕れるから、それだけですから」

「葉山であなたが作るカレー、とっても美味しいわよ。いい腕をしているって、夫も褒めていたわ。将来、うちの専属料理人になってほしいくらい」

笑い声が広がった。確かに僕は料理人として生きていくことになるのだが、そんなことはそのとき、夢にも思っていなかった。

これ以降、沢村家と湯浅家は家族ぐるみの付き合いをするようになった。

   

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