私は部落の東にある高台(南の畑)に兄を連れていった。空には雲は殆(ほとん)どなかった。星空であった。二人はその高台の畑に立って東の空を仰ぎ見た。

その空には怪しい星は見えなかった。

が、やがて、兄は独り言のように、「ウーム!!」と唸(うな)りを飲み込むような声を出した。そして右の手を上げて、「ホラ! ホラ! 見えるか?」兄が上げた手の方向を私はジッと見やった。

東の方を向いて立った二人からすれば、左の方の中天高く、この辺では一番高い小岱山の山上の空から六栄尋常小学校の校舎の上空にかけて、雲のような、長い袋型の怪異な形をした彗星が(星と想像のつくものではなかった)、天空に横たわっていた。

これがハレー彗星か? これが地球をやっつけに近づいているのか? 私はこの彗星を見つめ乍ら、膝頭をビリッと動かした。そしてそれを兄に知られないようにと、両足に力を入れて踏ん張った。

約半時も二人は東に向かって立ったままで、殆ど話はしなかったと思う。只、兄がいったことを一言だけ憶(おぼ)えている。

「ハレー彗星は、人間の一世に一度だけしか見れんもんだ。もう今日から七十五年目でないと、現れてこないからね……。今日はよかったね……」

一生に一度しかない経験を持つことが出来たという、兄の感懐だったろう。

彗星は南の端の方から段々薄くなってゆくように見えた。地球からは次第に遠ざかっていく証拠だ。私はホッとした。それと同時に立った足の痺れを覚え、さらに急に寒気を感じてきた。四月の夜風はまだ身に沁みる。

「もう帰りましょう。寒い!!」と言って、兄を促して帰路に就いた。彗星はまだ消えていなかった。


1)宮崎滔天(みやざきとうてん)の実姉・冨。

 

【前回の記事を読む】日本を愛し、日本人を信頼し切っていたが故に、牢獄死せざるを得なかった。――汪兆銘の妻・陳璧君の物語。

 

【イチオシ記事】喧嘩を売った相手は、本物のヤンキーだった。それでも、メンツを保つために逃げ出すことなんてできない。そう思い前を見た瞬間...

【注目記事】父は一月のある寒い朝、酒を大量に飲んで漁具の鉛を腹に巻きつけ冷たい海に飛び込み自殺した…