1 生い立ちから幼少時代

[誕生~小学校入学迄]

山科疏水のほとりの諸羽神社
チッソ水俣工場と市内全景(1962年当時) 熊本学園大学水俣学研究センター

 

私の出生は、滋賀県大津市の産科医院で誕生した。その日、10月16日は、京都市山科区北部の氏神様である諸羽(もろは)神社の大祭の日であった。

現代では「親ガチャ」などといった、どのような親のもとに生まれるかによって幸不幸が決まるようなことがいわれているが、私は子どもは親を選んで生まれてくると信じている。そして、運命は自分で切り拓くものだと考える。

父母と私の3人は、京都市東山区山科(現在山科区)にある大地主の借家で暮らしていた。あまりにも大きなお屋敷と小さな借家の差に、子ども心に違和感を覚えた。

その違和感とは、「こんなに大きな家に住む人と小さな家に住む人との差があるのはどうしてだろうか」という幼いながらの素朴な疑問であった。しかし、決して豊かな生活ではなかったが、何となく幸せな日々を送っていた。

5歳を迎えたある日、行動範囲が広がり、親の目を盗んでは危険な場所によく遊びに行くようになっていた私は、両親の喧嘩の最中に家を飛び出して5mくらいの崖の上から頭から飛び込んだのであった。

尖った石が眉間に突き刺さり血が噴き出し、血だるまになって家に帰った。気丈にも意識は失わなかったが、手当が遅れていたら生命の危険すらあったかもしれない。

驚いた両親は、夫婦喧嘩どころでなく、一人息子を死なせてはならないと、父が私を抱えて走って近くの病院に運んだ。当時から救急車はあったと思うが、電話が家にはなかったので呼べないのであった。

当時の救急病院には、レントゲンはあったかもしれないが、CTやMRIはなく、深い傷口を縫って止血をしただけの処置であった。

ただ、「この子は運がいい、あと1〜2cmずれていたら急所にあたって生命を失っていたかもしれない」との医師の「運がいい」という言葉が今でも脳裏に残っている。

ところが、その後、半年くらい顔が倍に腫れて完全に治癒しなかった。頼みは自然治癒しかなく、頭痛と吐き気が続いたほか、雨天の日は体調が悪かった。5歳の小さな体にしてはよく耐えたものである。

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