そこに戻ってきた草介に、「これからあすなろのメンバーで未知夫君の所にお見舞いに行ってきます。あんなことになって本当に残念です。せめて先生に診ていただいていたらと思うと残念です。それにしても私の息子も同じ状態だったので、今日は幸せです。
本当に地獄に仏とはこのことです。先生、先生にお縋りしますので、知数を助けてやって下さい。主人はここに残らせていただきますのでお願いします」
実知は机に頭を押しつけてひれ伏した。涙が机を濡らした。全身全霊の願いだった。
「ハア、できるだけのことはしますが、絶対に良くなるという保証はできません。説明書を読んでいただいた通りで、まだ確立された治療ではないんです。エビデンスもないと私を批判する人もいます」
素っ気ない言い方だったが、苦笑いを浮かべて実知に向けた目の奥の光が明るい。ウソのない光だ。この先生は融通の利かない性格だけれど、本当のことを譲ることができないから孤立しているだけなのだろう、と実知は思った。
急いで家に立ち寄り、着替えをして実知は中学校の駐車場に向かった。ギリギリの時間だった。
皆俯いて、ヒソヒソと話し合っている。不登校やウツ気味で元気のない子供を持つ親が多いこの支援グループの会員にとって、未知夫の自殺の衝撃は大きかった。誰にとっても我が身のことだったのだ。
中井が先を歩き、それぞれがそのあとに続いた。未知夫の家までは歩いていける。誰もがほとんど話すことなくゆっくりと歩いた。老人が亡くなった時とは全く違い、空気が重く沈んでいる。
子を持つ親にとって、子を失うということの悲痛が耐え難く胸に迫る。しかも自殺で失った。重い息苦しさ、絶望が誰の胸にものしかかっている。
キンモクセイ、ジンチョウゲ、バラなどが植えられた、手入れの行き届いた小さい庭の中央に通路があって、入口に喪中の提灯が下がっている。その下のツワブキの黄色い花と艶やかに照る緑の葉が目に焼きつく。
この植物は確かに今生きていて美しい花を咲かせている。実知は軽い動揺に襲われた。未知夫はもう、話すことも笑顔を交わすこともできない。生命の、決して超えることのできない厳然とした掟が目の前にあることを知らざるを得ない。自分も全く同じ状況を生きていることをひしひしと感じる。
玄関に線香が漂っている。出てきた父親の森山良助は目は澱(よど)み、血色を失い、声も出ない。手で招いて皆を座敷に案内する姿も、歩くのもやっとの様子で痛々しい。母親の多鶴子の姿がなく心配だった。
【前回の記事を読む】驚くほどの分析力を持った歯科医。立ち姿たった一つで息子の身体の小さなずれ、重心、そして神経の働きまでも事細かな予測と説明。
次回更新は2月6日(木)、21時の予定です。
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