実知は和徳と目を合わせ、軽い溜息をして目を伏せた。息子の身心に突然起き、悪化してきたこの病気の正体は何なのか。何が起きているのか、理解できない。それもなぜ自分たちの家族に、あんなに明るく元気だった息子に起きたのか。

原因は何なのか、全く理解できない。だが、複雑で不思議で悍(おぞ)ましい目に見えないその中身が、体と心の破壊を進行させていることは間違いない。

ここで怯んでいては仕方がない。

「知数、少しでいいから食べて」

実知が呼びかけ、和徳が知数を抱え上げて座らせる。

「このリンゴを食べてみて。とてもおいしいし、リンゴの命が伝わってくるのよ。お母さんはこれで力づけられた」薄く切ったリンゴを知数の口につけると、小さく口を開けた。押し込むとそれをゆっくりと嚙んでいる。

「食べた。食べてくれた」

実知は狂喜して、顔を赤らめた。

「スープもトーストもスムージーも食べてみて。今日は診察も長くかかるから、頑張らないといけない日よ。お母さんは勝負する決心でいるのよ。お前も一生の大勝負なんだから頑張ってちょうだいね。もうあとはないんだからね」

知数はテーブルに覆いかぶさったまま、のろのろとスープを吸い、スムージーを飲んだ。

知数も頑張ってくれているのだ。こんな朝の時間に少しでも食べるのは必死に違いない。それからトーストを一口かじり、また床に体を丸めてしまった。

それでも実知も和徳も元気が湧き上がる。申し訳程度に自分たちも食事を済ませ、時計を見るともう九時半を回ってしまっている。

和徳が背負って知数を車に乗せ、やっと十時前にみつる歯科に入ることができた。和徳の肩を借り、待合室に入ると知数はソファに丸まってしまった。死んだように動かない。

しかし受付をしながら、実知にはいつにない安心感のようなものがあった。とにかく可能性を求めて自分も、そして何よりも知数がここまで来てくれたのだ。

今までならば暴言や暴力が振るわれたはずだが、今回はそれもなく、支えられてやっとながら自分も納得して、ここまで来てくれたのだ。先の見えない泥沼から這い上がれた思いがしたのは当然だった。

受付では症状の経過や現状についての細かい問診票の記入が必要だった。それからカルテが作られ、暫く待たされた。

「川瀬知数さん」と屈託のない、明るい声で呼ばれたのは、もう十時四十五分になっていた。こんなに絶望的な患者も、いとも明るく、軽く呼ばれるのだと一種の落差を感じたが、それだけ仕事に慣れている証拠だろう。自分たちの気持ちも軽くなったように感じられた。

【前回の記事を読む】寝てはいられない。1年半引きこもっていた息子がついに歯科医へ行くと決断した。閉ざされていた未来への期待に胸が膨らむ。

次回更新は2月4日(火)、21時の予定です。

 

【イチオシ記事】喧嘩を売った相手は、本物のヤンキーだった。それでも、メンツを保つために逃げ出すことなんてできない。そう思い前を見た瞬間...

【注目記事】父は一月のある寒い朝、酒を大量に飲んで漁具の鉛を腹に巻きつけ冷たい海に飛び込み自殺した…