―― こんな事をしている時ではないわ――  

典子はぎっしりと詰まった花をざっと整えると、花瓶をテーブルの端の方にずらした。

―― 茉莉はどの辺りだろうか?――  

典子はテラス前の一段下った石敷に降りると、背を伸ばして下方を窺った。道がカーブしている事や、人の背丈に近い薔薇も多く、そこからは見えなかった。数歩、薔薇の小径に入っていった。

茉莉の姿は思ったよりもずうっと下方にあった。横向きの姿が目に入った。顔を真近く花群に寄せている。丹念に味わうように。

さっと喜びが湧いた。

―― 薔薇を、私の薔薇を見ている!――

それほど熱心に見てもらえるとは、先ほどの冷淡な素振りからは思えなかった。しぼんでいた胸が熱くなり、嬉しさが楽章のように典子を包んでいった。しかし同時に典子は、今この時が、午後を過ぎているのを恨めしく思った。 

薔薇の香りは朝の九時頃までが最も際立つ。日の出と共に花弁の中のフェニルエチルアルコールやゲラニオールといった、それぞれ特有の芳香成分が放散されていく。

しかし陽が昇り気温が上がるにつれてその蒸散は激しくなり、香りは希薄になっていく。それでも鼻を寄せれば、香りの在り処ほどは確かめる事はできる。全部消えてしまう訳ではないから。

―― でも、明日の朝があるわ―― と典子は思い直した。

明日の天気も晴れの予報だった。

茉莉の体が動いた。わずかに首を回しただけで横向きのまま上の株に移った。体を少し屈める。薔薇の繁みに隠れるように典子も体をずらした。探り見をするかのようで気が咎めたけれど、ずっと茉莉の様子を見ていたい、と思った。

茉莉はスロープの下側に体を回した。後ろ手に引いていたスーツケースを横向きに止めようとするのだとわかった。前の(熱情)という大輪の赤薔薇をよく見ようとしてなのか ……。

―― うまくバランスを取れるといいけど、あの辺りからは傾斜は随分緩やかになっているけれど――  

小さな心配が、ふと記憶を呼び覚ます。

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