大学へ入る前か入った後か忘れたが、たまたまテレビのニュースで大学進学率について報じているのを見たことがある。
確か四十パーセント代前半だったように記憶しているが、この時初めて、大学へ行かない人の方が多いのだと知り、そのことを父に言ったが、父は私の言うことには耳を貸さなかった。
「そんなことない。誰でも大学行く」の一言でおしまいだった。私がそう言っているわけではなく、テレビが伝えていることなのに。
とにかく、父には自分なりの価値観があったようで、人の話は聞かないし、客観的事実を突きつけられても、頑として自分の価値観を曲げなかった。全く話の通じない人だった。そんな性格でよく学問ができていたものだと不思議に思う。
小学生の頃は、友だちの家庭が羨ましくて、よその家の子だったら良かったのにと思うことも少なくなかった。友だちの家庭は、我が家よりずっと自由な雰囲気に思えていたからだ。
精神的な部分が大きかったと思うが、お小遣いとか服や持ち物といった物質的な部分も含めて、そう感じていた。
しかし、父は子どもがよその家庭と比べることを特に嫌った。いつも、「よそはよそ、うちはうち」とか、「よその家のことは言うなー!」と言い返されるので、それ以上は何も言えなかった。
大人になると、父のこの言葉もわからなくはないが、子どもにとっては辛いことである。父は怒りっぽくて、子どもには何かと厳しかったが、私が一番ストレスに感じていたことは、どうでもいいような細かいことに対しても、いちいち口うるさく、すぐ人を責めるところだった。
私もある程度の年齢になると、父に怒られないように気をつけるので、叩かれることはなくなったが、些細なことでもすぐ責められた。
父は自分より立場が下の者に対しては、自分の感情のままに接していたのではないかと思う。気に入らないことがあると、それがいつまでも忘れられないようで、思い出す度に、それが何年も前のごく些細なことでも、蒸し返してねちねちと責めてきた。
それが一度で済めば良いが、何度も同じことをくどくど言われると、さすがに私もぶっ切れてしまうこともあった。
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