1 ある事件
見ているようで、実は目は何も見ていない。無表情の患者の様子は、とにかく早く自分の名前が呼ばれることだけに集中している。だから耳は研ぎ澄まされている。反対に、目には意識を集中する必要はない。茫然とテレビ画面を眺めるだけだ。
まぁ、ここは眼科なので「眼の病気」で来院するから、目にあまり力がないのは病気のせいなのかもしれないが……。
あずみが、そんなことを考えながら椅子に座っていると、受付窓口のほうから仕事を終えた結城さんがやってきた。
「今だったら、桂先生はお目に掛かれるそうよ」
そう耳打ちして、結城さんが一緒にいらっしゃいと促した。
「あの、すみません。お忙しいときに……」
「いいのよ。少し顔見せるだけでしょ?」
結城さんに連れられて一番診察室に入った。
そこには、看護師主任の佐々木さんと桂先生がいた。桂杏子先生。いわゆる名医だがまったく偉ぶっていない。
そして桂先生のそばでいつもサボートしている看護師の佐々木さんも人間ができており、この人もまったく偉ぶらない。ふたりの能力、才能はもちろんのこと、人間的にも尊敬する。
「さっそく、来たね」
桂先生が言葉少なく言った。しかしその言葉の裏には、歓迎のニュアンスが感じ取れた。
「まぁ、篠原さん! わざわざ来てくれたのね。本当に今日もお手伝いに来てほしかったのよぉ!」
佐々木さんもそう言って、単なる短期バイトの自分のことでも持ち上げてくれる。
あずみは面映ゆく感じながら、「すみません。バイトが昨日までで……。今日も忙しかったのですね」
そう弁解する。でも、昨日までの短期の学生バイトなのだから、それははじめから分かっていたことなのだ。あずみも、当たり前のことをバカ正直に答えている。
「そうなのよ。そりゃ桂先生のときはいつも患者さんが多いのだけれどね……」
桂先生の受診日に限って、という言葉の端々で佐々木さんは桂先生のことをまた自然に持ち上げる。実際そう思っているのだろう。
「佐々木さん。篠原さんに次のバイトのときも眼科に来るようにお願いしなくちゃならないね」
桂先生が笑いながら佐々木さんに言った。
「本当にそうですよ~。篠原さんは眼科に来てもらわなくちゃいけないわ」
「そんな……。ありがとうございます」
あずみのほうこそ眼科は居心地がよかったので、次回もぜひ、と望むところである。
「あ、そうだ。佐々木さん」
桂先生が言った。