この編集目的は氏族の再編と天皇家への系列化である。大多数の氏族が当時の権力者である天皇家との縁戚関係を記した書物を当然尊重するだろう。また天皇家が諸豪族の宗家として一層権威を高めることになり、すべての臣民は天皇家を祖とする形となった。
かくして史書としての内容に疑義を唱える者はいなくなった。ただし記載史実の正当性、正確さは別問題である。
「欠史八代」の天皇は実在したのか、それとも豪族の系列化のために創作された人物だろうか。広く豪族から集めた情報を利用したと考えるなら、「欠史八代」の天皇は豪族の中から、長い系図の情報を持つ氏族や、有力豪族の始祖とされる人物を選抜したのかもしれない。
例として挙げられるのは、「懿徳(いとく)天皇(四代・大倭日子鉏友命(おおやまとひこすきとものみこと)」である。
「景行天皇(一二代)記」で、小碓命(おうすみのみこと)(倭建命(やまとたけるのみこと))の東征に際し、副官として「吉備臣等の祖、名は御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)」の名が見える。「鉏友」が共通するだけで「懿徳天皇」と関係付ける「つまみ食い」をするつもりはない。注目すべきは修飾された文字である。
「御」、「耳」、「建」、「日子」の肩書はすべて、高貴で地位の高い優れた指導者像を示している。この人物が小碓命の副官だとすると、小碓命は明らかに位負けしている
(引用資料1-1、以下引用資料は巻末の引用資料集を参照)。
『日本書紀』に記された副官の名は吉備武彦とあり(引用資料1-2)、彼等吉備一族の祖先の英雄が「御鉏友耳建日子」ではないだろうか。この開祖「鉏友」からの系図を四代天皇に挿入したと推論できないだろうか。
「欠史八代」の天皇はいなかったと考える前に、別の可能性を模索すべきかもしれない。系図の中に新たに組み込まれた天皇が存在する可能性を念頭に置けば、『記紀』の記述の一部を安易に「つまみ食い」すべきでないことは当然だろう。