第三章 帰郷、営業マン走る!―高度成長期の時代と共に

母との別れ

私がそんなふうに、自分ではじめた仕事であたふたしていた頃、家庭でも一つ大きな出来事があった。千葉で暮らしていた下の妹が、母に戻ってこいと声をかけてきたのだ。

川崎製鉄に入社した妹は、そこで出会った同じ社員の男性と結婚していた。夫婦で会社の社宅に入りたいのだが、家族が多ければ広い部屋が借りられる、というのがその理由である。

もちろん私や妻はこのまま一緒に暮らしてほしいと反対した。母自身も私たちと一緒に暮らしたいというのが本音であったように思う。しかし妹の度重なる誘いに、ついに母も折れて、結局は妹たちの住む千葉へと行ってしまった。

せっかく故郷に戻ってこられたのに、母にはずっとこの地で過ごしてほしかったと、ちょっと切なく、悔しくもあった出来事であった。

その後、下の妹夫婦のところには、二人の娘が誕生した。妹は子どもが生まれても仕事を続けていたので、母が子育てのすべてを任されていたらしい。働き者の母であったから、頼りにされて、やるべきことがあったのは幸せであったのかもしれない。

忙しくも充実した日々を送ったであろう。そして妹も、定年退職するまで川崎製鉄で働き続けた。私自身、一度は定年まで働こうと思った会社である。母の支えはあったとしても、高校を卒業した十八歳の時からずっと同じ会社で働き続けた、それはたいしたことであった。

母は九十三歳で、実の娘たちに見守られて亡くなった。葬儀のときには、母が我が子のように育てた孫娘たちが号泣していた。愛し、そして愛された血のつながる孫たちだったのだろう。

熊本、台湾、熊本、そして千葉へと転居しつつ、母はどこにいても強くたくましく、愛情豊かで働き者であった。私の母はやはり最後まで、この人であった。