今日に至る日朝関係

日本はロシアや中国大陸からの脅威に備えるためのバッファーゾーンとして、従来から朝鮮半島の独立と諸国家の近代化を望んできた。日清戦争の勝利によってそれに成功し、十分な支援もしてきた。

朝鮮半島は後漢時代に高句麗が朝貢して以来、隋・唐・元・清によって冊封や属国化され続けてきた。

一三九二年、もと高麗(こうらい)の武官であった李成桂(りせいけい)が下剋上によって高麗王を廃位させて明から冊封を受けて高麗国事になって李氏朝鮮の創始者となる。彼は倭寇の撃退にも功績があって銅像が建てられている。

一五九二~一五九八年の豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮では壬申の乱・丁酉の乱)では、李舜臣(りしゅんしん)が亀甲船(きこうせん)で日本水軍を撃退している。

一六〇七年、徳川将軍のもとへ通信使が派遣される。一六三七年に清に服属し、属国となった李氏朝鮮は、中華政策をとる清帝国の意向を受けて厳しい華夷秩序を踏襲するようになる。

一八六三年、大院君(たいいんくん)(興宣(こうせん))の次男であった李載晃(りさいこう)が第二十六代王となるが幼少のため大院君が摂政となる。また載晃は政治性に欠けていたために、長期間にわたって大院君と載晃の妻の閔妃(みんぴ)の間に主導権争いの政争を招くことになる。

一八六八年明治維新のなった日本政府は、新政府の樹立通告と維新の成功体験を前提として、華夷秩序に縛られないで欧米の万国公法に基づく両国関係を求める国書を朝鮮に送った。

しかし「西洋風な蒸気船に乗って来て、しかも西洋服を着ている」ことが儒教精神に基づく華夷秩序に反するとして拒否される。その朝鮮も実は、日本同様に半島圏の小中華を気取っていたのである。

その後何度も交渉するが拒否される。

ほどなく一八七一年、アメリカ艦隊が江華島砲台を一時占拠して朝鮮側に奪還されるという事件が発生する。この事件によって門戸開放交渉はますます難しくなる。その後岩倉使節団の洋行もあって、交渉は棚上げ状態となる。

そのうちに外務省官吏等の働きかけで朝鮮所在の日本公使館(元対馬と朝鮮間の交渉窓口であった)経由での接触が試みられるが、逆に公使館への食糧供給停止や日本商人との貿易活動が停止されることになる。

【前回の記事を読む】仮想敵国としての日本…日清戦争前の国際状況は?領土や利権を奪われたにもかかわらず、中国はロシアに対して親近感を…

 

【イチオシ記事】遂に夫の浮気相手から返答が… 悪いのは夫、その思いが確信へ変わる

【注目記事】静岡県一家三人殺害事件発生。その家はまるで息をするかのように、いや怒っているかのように、大きく立ちはだかり悠然としていた