第二章 歴代中華王朝における華夷秩序の変遷
日朝間の朝貢関係
「日本書紀」によれば、当時倭国は任那(みまな)(伽耶(かや)諸国)を直接支配し、百済・新羅両国にも進貢させていたようである。
日本は中国(大陸)を中心とした東アジアの秩序世界(縛り)から海を隔てて距離を置いていた結果、その影響は限定的なものであった。そのために外交や軍事政策において自主性が確保されていた。倭国は外交及び軍事政策において「小帝国」(小中華)を志向することが可能であった。
このことは、日本が自己を過大評価する傾向の源流とも受け取れる。それ故に、宗主国(大中華)を差し置いて朝鮮半島諸国家に対して貢納(見かじめ料)などを求めることができたのであろう。
後に米国の戦略家や為政者たちは、この関係をアジア諸国人に対する日本人の優越性の起因として捉えている。特にトルーマン政権時に国務長官を務め、日米安全保障条約の「生みの親」とされているダレスは、このことを日本人が他のアジア人の国々に対して持っている優越感として捉えていた。
しかしその彼も、日本人の地位そのものは東アジアの夷(蛮族)の枠内に閉じ込めている。彼の根底にある考え方は次のようなものである。
「他のアジア人の国々に対して日本人が持っていた優越感を利用して、わがエリートのアングロサクソンクラブに入れるという憧れを餌に西側陣営につなぎ止めるべきである。また日本人を信頼しきれないというジレンマは、永遠に日米安全保障条約につなぎ止めて、軍事的に従属させることで解決する」というものであった。これが後のボトルネック説を生むことになる。
奈良、平安に続く鎌倉、室町、戦国時代の遣使や朝貢の態様は、明らかに文化の摂取と交易を目的とするものであったといえよう。ただし室町期は多少異質ではあるけれども。
しかし漢時代から連綿(れんめん)(長期に渡って)と引き継がれてきた東洋的で曖昧(あいまい)さのある日中関係から、中国側では一貫して君臣関係の朝貢(冊封)とみなしていた可能性がある。そのような節が中国高官などの言動から感じ取れる。
朝貢などに絡む唐と新羅の連合軍との戦い、「白村江の戦い」の敗戦によって、以後大陸からの脅威が差し迫った倭国は、領土や周辺領域の防衛強化の必要性を強く認識させられる。
ここで初めて島嶼国家としての自らの位置と分限を認識させられたともいえる(やはり外圧によって)。
このように昔から日本は外国の脅威に対しては鈍感であった。同時に自国を実力以上に評価する傾向があったことをも銘記する必要がある。