其の弐

何か気になるものが目の隅を掠めた。何気なくそちらを見て、伊藤医師は化石したようになった。危うく鞄を取り落とすところだった。初めは我が目を疑った。

赤いアポロキャップに紺のジーンズの上下、それはありふれた服装に相違ない。だが彼の目は長袖に白手袋、やけに薄い身体、そして何やら浮いた雰囲気を見逃さなかった。そうだ、あの独特の雰囲気は忘れようがない。長袖だとか手袋だけの問題ではないのだ。

「ちくしょうっ、やったぜぇ」

伊藤医師は辺りを憚らずに大声を上げた。その声にホームにいた人々が振り返ったくらいだったが、そんなことに気づく気配もなかった。彼はなおもその男を見つめてニヤリとほくそ笑んだ。もし人が見ていたら、ぞっとするような一種凄惨な笑いだった。

その男はやがて三輛編成の電車の影に消えた。だが伊藤医師にはまるでその姿が見透かせるかのように、そちらを見つめたままホームの階段を上っていった。その様子はまるで獲物を狙う猫科の動物のようだった。骸骨には何とも不運な偶然だったが、こうした抜け目のない男に幸運が舞いこむのはよくあることなのだった。

  

南小谷行と書かれた電車は眠ったように静かだった。すぐそこに畑が迫って鍬を揮う人が見えたり、どこからともなく肥料の匂いが車内に入りこんだりしていた。

骸骨はきょろきょろと辺りを窺った。疎らにではあるが、人が乗っているのだからいつかは動き出すはずだ。そうは思うものの何だか落ち着かなかった。

ふとがやがやと人の来る気配がした。どやどやと人が乗りこんできて、あっという間に席が塞がった。車内がわいわいと騒がしくなった。気がつくと斜め向かいの人が骸骨を盗み見していた。

「またか‥‥」

小声で舌打ちして目を瞑った。そうしていれば嫌な思いをしないで済む。やがてベルが鳴り、ガクッと車内が揺れた。発車だった。次第に高くなる車輪の音を聞きながら、なおも骸骨は目を閉じていた。そうしているとゴトンゴトンと鳴る車音と軽やかな振動が心地よかった。

暖かだった。上の方からやさし気な声が降りてきた。遠くで車輪の音がゴトンゴトンと響き、草原の匂いが心地よかった。骸骨は母親の膝に抱かれている自分を感じていた。