当時、加藤諦三氏(現在、早稲田大学名誉教授)がパーソナリティーをつとめるラジオ深夜番組『セイ!ヤング』をときどき聞いて気晴らしにしていた。都立西高等学校から三浪して東大に入学された過程で、いろいろ悩んだこと、苦しんだことを熱く話されていた。
この点に深く共感していたのだろう、加藤氏の著書は何冊か購入した。それにしても、話のなかに何度も出てくる高校時代の同級生「Y」はどんな人物だったのだろうか。
中島みゆきさんの『ファイト!』の歌詞には、その歌声とともに心打つフレーズがいくつも登場する。まさしく高校時代の実の心情を代弁していて、この歌を聴くと、なんともいえない高揚感を今でも覚える。
当時の実の勉強部屋は、すりガラスのはまった木製の引き違い窓で三方が囲まれた部屋で、カーテンはなく風通しがとてもよい部屋だった。真夏は扇風機ひとつと汗拭き用の手拭で乗り切った。
当時、現在のタオルのような吸湿性のよいものはあまりなく、まさに生地の薄い手拭であった。
真冬の気温は今よりだいぶ低かったにもかかわらず、足温器が唯一の暖房器具で、綿入りはんてんと指の先端部分を切った軍手がもうひとつの越冬のための武器だった。
加えて、羽毛布団のような気が利いた寝具もなく、やたら重くしかも冷たい綿の布団に潜りこんでも、なかなか寝つけない。確かに、真冬は「ふるえながら」勉強していた。
実は、自分に適した勉強法を3年間模索しながら受験勉強に没頭していたが、結局現役では合格することはできなかった。
「うちの高校から、東大なんか入れっこないよ」と考える多くの同級生たちに囲まれて、孤軍奮闘していた実は、自分の実力が全国のなかでどの程度の位置にあるのかまったく把握できておらず、いつまで経っても自信が持てなかった。
年に数回受ける全国模試だけでは、判断しようがなかったのだ。当時の18歳人口は156万人と多かった。
【前回の記事を読む】トップ層との差は3000時間。地方に住む学生が難関大学への合格を目指して動き出す!
【イチオシ記事】「リンパへの転移が見つかりました」手術後三カ月で再発。五年生存率は十パーセント。涙を抑えることができなかった…