時は流れ國分能登守の庇護を受け居城となり「千躰城」と改め号しましたが、栄枯盛衰その後、大満寺は再び荒廃無住の状態となり、千躰仏も散失していましたが、天正元年(1573年)、龍泉院(仙台市若林区)三世量山廣壽 (りょうざんこうじゅ)大和尚が虚空蔵堂を再建、大満寺を中興いたしました。

当時の青葉山には龍泉院、長泉寺、光禅寺、玄光庵、大満寺の五ヶ寺が所在しておりました。伊達政宗公が関ケ原の前後に陸奥国(宮城県の旧名)に入られたとき、青葉山を気に入られてそこを居城と定めたようです。

そして城を縄張りされるときに虚空蔵山大満寺が千躰城と呼ばれているならばこの地を仙台と改めるということになったようです。木彫りの観音さまが沢山祀られていたので千躰城と称していたところ、仙臺城から仙台城へ変遷した経緯がございました。

現在の千躰仏さまは先代、大満寺三十一世、廣宣大和尚の時代に復刻されたものも含めて、昭和五十八年に建立された千躰堂に長い年月を経て祀られております。このよ

うな流れでこの地が仙台と命名されたのでございます。まさに当山大満寺千躰仏、虚空蔵大菩薩が仙台地名由来のルーツとなったのでございます。

慶長五年、青葉城を大規模に縄張りする際に、前記の五ヶ寺をそれぞれ遷(うつ)されました。

虚空蔵山大満寺は現在の伊達政宗公霊廟「瑞鳳殿 (ずいほうでん)」がある辺り、経ヶ峰(現在の仙台市霊屋下)に移されたのですが、二代伊達忠宗公がお亡くなりになられる前に虚空蔵大菩薩、大満寺があるところに我が霊廟を建てて欲しいという発願をなされ、

虚空蔵山大満寺があった場所に仙台藩二代忠宗公霊廟「感仙殿 (かんせんでん)」が建てられました。その時の普請奉行に当たったのが奇(く)しくも伊達騒動を題材にしたNHK大河ドラマ『樅ノ木(もみのき)は残った』(1970年1月4日~ 12月27日放送)で描かれた伊達藩家老、原田甲斐宗輔と伝えられています。

その際に大満寺が二代忠宗公の位牌寺となり三十六石の寺領を頂戴し着座格として格付けされ、正式に伊達家ゆかりの寺院となったのでございます。

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