源五郎出奔
指扇村の市を出て一時(いっとき)ほどが経ち、未(ひつじ)の刻の少し曇りがちになった空の下、生暖かい風を感じながら源五郎達は歩いていた。
じりじりと照りつける陽射しが無くなり、歩くのも多少楽になった街道には、指扇村を離れるにつれ少なくなっていた通行人が再び増え始め、旅の修行僧や商人、武士や百姓などその多様さと量が増してきていた。
源五郎達が歩んで来たこの街道は、長禄(ちょうろく)元年(1457)、武蔵国東部の湿地帯で上杉と古河公方の対立が激化した折、扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)が家宰の太田道灌に河越城と江戸城の築城を命じ両城を軍事道路(後の川越街道)で結んだものである。
岩付を発し氷川神社を経由し、河越に至るまでの道は全てその時整備されたものであり、土手や石積み、道祖神などは八十年の年月を偲ばせた。
そんな歴史を感じさせる軍事道路を更に進んで行くと伊佐沼が現れ、その沼岸の先に遥かな秩父連山を背に三芳野(みよしの)の里と呼ばれる丘と、そこから曇天の空に突き上げるかのような、高い櫓(やぐら)が見えてきた。
「あれが上杉朝興(ともおき)公がおわす河越城だ」
源五郎が熊吉に話しかけた時、ふと思い出した。
確か二年前……。
朝興公は武田信虎の嫡男に娘を嫁がせ、武田と連携し北条を攻め、巻き返しを図った。武田の嫡男……太郎と申したか、俺と同年だったと聞くから、十二の歳に嫁をもらった事になる……。
自分はと言うと、その朝興公の家宰、難波田家へ太田の名を捨て婿養子に行かねばならない。