その理不尽や不条理、太田道灌の流れを汲む名跡から外れる悔しさや、やりきれぬ想いを無理やり呑み込み、曇天の河越を見渡した。
城のある河越の地は河肥とも書き、古くは河肥太郎重頼で名高い秩父党の旗頭、河越氏の領する地であった。
河越氏の館は今の川越市上戸の常楽寺がその故地で、今も土塁や堀が存在する。
河越、岩付、江戸の三城は扇谷上杉家の武蔵経営の要となっていたが、十一年前の大永四年、江戸城は北条に奪われてしまい、存亡の危機にある扇谷上杉家にとって河越城、岩付城は何がなんでも守らねばならない最終防衛線とも言えた。
その河越城は武蔵野台地の北端にある比高六メートルほどの平山城で、東側の低地を見下ろす自然の要害に位置している。
城の北を赤間川(あかまがわ)(現新河岸川(しんがしがわ))、入間川(いるまがわ)、越辺川(おっぺがわ)が流れ外堀の役目を果たし、南は遊女川(よながわ)の湿地帯であった。
城下に入った源五郎達の目に映るものは、江戸時代以降の興隆こそなかったものの、この頃の河越城も城下町は栄え、定期的に市が立つ賑やかなものだった。
ちなみにこの時より遡る事十三年前(大永三年(1523))、廻国修行中の剣豪塚原卜伝(つかはらぼくでん)が小薙刀の梶原長門と仕合い、この地にて討ち倒している。
小童特有の強さへの憧れは、源五郎も例外ではない。
聞き覚えのそのような事にも思いを馳せながら、城下町を散策している途中めし屋を見つけ、
「少し遅いが昼餉(ひるげ)にしよう」
つき丸は軒柱に麻縄で留め置き、めし屋に入ると広い土間には切株の腰掛と一枚板の机が五卓ほど並び、数人の客が食事をしている。