第一章 「高天原」訓読の研究成果と考察─その今日的意義
1. 『古事記』の訓注の役割と重要性
そして「高天原」の訓注は「〈天〉字が〈アメ〉でなく〈アマ〉をあらわすことを示し、その直前の〈高〉字のあらわす〈タカ〉と結合して両者で〈タカマ〉をあらわすものと受け取るわけであり、この解釈はこんにちに至るまでうけつがれている」との認識を示したうえで、「このような背景があるにも拘らず、この訓注は〈天〉字を〈アマ〉と読むよう指示しているのは、〈たかまのはら〉と短縮せず、〈アマ〉の言葉を残すことの伝承者の強い思いの表れではないだろうか。」と鋭く問題提起をしている。
さらに、「多くの語の古形を伝えるこの『古事記』においては、これを〈タカアマノハラ〉とよむべきである。
この〈タカアマノハラ〉のかたちこそ古い時代に一般的に用いられていた語形なのであって、同じ概念をあらわすために用いられている〈天原〉を〈アマノハラ〉とふつうにひとびとが呼んでいるのとその部分に関しては同形なのである」と結論づけた(注1)。
小松英雄は、その著『国語史学基礎論』の中で、「高天原」の訓読に関し明解な解釈を下している。
小松は、「高天原」の「天」の字が自由形式のアメではなく、拘束形式のアマで訓まれるべきことが訓注で指示されており、それは次の語とともに一語を形成することから、「高=天原」という構成を意味することと考えた。
従って「高=天原」という構成であるならば、「タカマノ-ハラ」ではなく、ここは「タカ-アマノハラ」であると論じたのである(注2)。
山口佳紀もまた、「小松によれば、〈天〉の字は、アマともアメとも訓めるが、アマの字は次の語とともに一語を形成することを意味するから、この訓註は、〈高天原〉が、〈高天=原〉でなく〈高=天原〉の構成であることを物語っているというのである。
すなわち、『古事記』の訓注は、読者が本文の内容を間違いなく読み取れるよう施されたものである。」と、小松の論に賛同し「タカ-アマノハラ」と読むべきことを説いている。
山口は、「〈高天原〉はタカアマノハラと訓むべきであろう。この語がタカ=アマノハラという構成であることを示そうとしている以上、そう発音せざるを得ないはずである。
聞きなれない発音であると違和感を感ずるのは、むしろ後世的感覚である注3」と小松の説を支持した上で、上代人の感覚というものを重視している。