衣服がトンネルの壁で汚れてしまったが、パタパタと埃を払うと何とか格好がついた。まだそれほど陽が高くないというのに、黙っていると衣服が焦げるような暑さだ。
またてくてく歩き始めた。里までは遠かった。バス停を探しているのだがそんなものは見つからない。辺りは今が盛りの蝉の声で、それが耳を圧迫していた。長野へ来てから随分と経つというのに、初めて耳にする蝉の声だった。
考えてみれば、今までいつもあの標本室の中でこの声を聞いていたのだ。今こうして公然と外を歩いている、これこそ自分の望んでいたことではなかったのか。そう気づいて今更のように吃驚した。正太に逃げられてしょんぼりしていたが、でもそれは振り出しに戻っただけのことではないのか。
相変わらずの車の数には閉口したが、それを除けば山々を眺めて歩くのは初めての経験だったのである。
「何から何まで駄目って訳ジャナイ‥‥」
そう呟いて深呼吸すると、少し勇気が出てきた。
考えてみれば、あの標本室でぽつねんと小さな窓を眺めているよりずっと増しだった。今見渡す限りの空があり野山がある。この広い世の中には一人くらい自分を受け容れてくれる人がいるだろう。そう考えて自らを慰めた。
途中で戸数四五十の集落が現われた。骸骨は雑貨屋へ寄ると煙草を買い求めた。別に無くてもかまわなかったが、ついでに最寄りの街までどれほど離れているのか訪ねてみるつもりだった。
「そうじゃのう、一里半ばかり下れば、電車の駅があるけのう」
耳の遠い老婆は、何度も大声を張り上げてやっとそう答えてくれた。その時壁の時計を見て吃驚した。まだ七時半だった。
礼を言って外へ出ると、ちょっと考えこんでしまった。一里半というと六キロだ。時間の制約はなかったが、結構遠いなと思った。今朝林の中を出てから同じくらい歩いているはずなのだ。
「ちょっと、赤帽子のひと‥‥待ってくんさい」
老婆が店からよちよちと出てきて骸骨を呼び止めていた。
「倅がのう、町まで行くきに、乗せてやると言っておるきに」
そう言い終わってからやっと追いついて、骸骨の袖を引っ張った。
【前回の記事を読む】東京では色々なものを見た…夕方の駅、恋人が現れた時の女性の表情。葬列で、崩折れそうな黒装束の女性たち。人間って本当に…
次回更新は11月22日(金)、11時の予定です。