車夫に急がせ、樵木(こりき)町の宿舎までいったん戻った後、ヨンケルは大きな往診鞄を抱えて出てきた。そして再び人力車に乗り込み、夜の京都の街を駆け抜けた。
賀川流といえば、江戸時代の半ば、京都で賀川玄悦(げんえつ)が創始した産科医の流派だ。玄悦はほとんど独学で産科学を学び取り、独自にそれを発展させた。
やがて多数の門下生を輩出するようになり、今や日本で最も大きな一門となっていた。しかも玄悦の功績は、当時の西洋医学に匹敵するものだった。
妊娠末期の胎児が、頭を下にしているという発見も、その一つだった。これはスコットランドの産科医スメリーが、一七五四年に発表したのとほぼ同時期だった。また彼の考案した回生術は、分娩停止による死産児を取り出す画期的な方法だった。
玄悦の医術を受け継いだ産科医は、幕末までに二千人を超えた。ところが彼の没後、賀川流では医学的な進歩がほとんどみられなかった。玄悦を凌駕する医師が現れず、その産科医も、早々に母子の死を覚悟してしまったらしい。
三人がその商家に到着すると、消耗しきった妊婦が、奥の座敷で陣痛に顔を歪めていた。
妊婦の夫は不安に押し潰された表情をしていたが、産婆と産科医はヨンケルの姿を見るや、一気に安堵の色を浮かべた。
「ジョー、手伝ってください」
てきぱきと診察の準備を始めながら、ヨンケルが万条に指示した。
この場に通訳の大木玄洞はおらず、ドイツ語がわかるのは万条だけだった。安妙寺はまだカタコトだったため、ヨンケルは助手に万条を指名したのだ。
賀川流の産科医によれば、どうやら胎児の向きがおかしいらしい。そのせいで分娩が停止してしまい、今に至っているとのことだった。
【前回の記事を読む】お楽しみがあると聞いた直後にすっと襖が開いた。現れたのは、艶やかな着物姿の女たちだった