俺の曾曾祖父さんは「橋口右太郎藤原正弘」と名乗っていた。家名の「橋口」、輩行名の「右太郎」、氏が「藤原」、そして諱(いみな)が正弘というわけだ。この名前を聞くだけで昔は立派な家格だったことがわかる。

そして父曰く、幼い俺をずっと見守ってくれていたのが、正弘の実の妹の『ふみ』さんだというのだ。

橋口家の先祖は、幕末まで京の都の北北西にあった園生(そんのう)藩三万石の上代家老を勤めていた。大出英尚という園生藩主は、幕末の早くから官軍に同調して御所の警備に当たるなどしていたから、維新後、廃藩置県のあとも園生県の知事という地位を得ていた。そして、明治四年に園生県が京都府に編入されてからも子爵に任じられるという名家だった。だから、維新後も大出侯に従っていた橋口家もそれなりの家格を維持していた。

正弘は、後に今の京都地方裁判所の判事を務めた人だが、その前に親の勧めで、摂津の士族だった吉村家から嫁をもらっていた。それが俺の曾曾婆さんに当たる「ハル」さんだ。

「ハル」さんは、嫁いですぐに身ごもったが、生まれつき体が弱かったこともあり、生まれた男子は二千グラムに満たない未熟児だった。医者からは五年も生きられないだろうと言われた。しかし、それでも大きく育つようにと父親の「弘」という字に「大」の字をつけて「弘大(ひろはる)」と名づけられた。これが俺の曾祖父さんだ。

このとき、幕末の動乱のなか嫁にも行けずに実家で両親と一緒に暮らしていたふみは、ハルと一緒になってこの子を何とか立派に育てようと心に決めた。正弘はそんな妹を不憫に思い、その後縁談話をいくつも持ち込んだのだが、ふみは頑として受け入れることはなく、ハルと共に弘大の世話に日々力を注いだ。

そんな彼女の思いが通じたのか、弘大は成長が遅いながらも無事五歳の誕生日を迎えることができた。

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次回更新は11月11日(月)、22時の予定です。

 

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